法華経の注釈集 観世音菩薩普門品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)

 

P.223

・観世音菩薩(観自在菩薩)

 前章の「妙音菩薩品」の”妙音”とは、”音にならない音”、”何もない真空”を意味するものであったが、本章の観世音菩薩は、この”妙音”を観る力、すなわち、「真空の構造と仕組みを見極める力」(奥平亜美衣、小宮光二、『真訳 法華経』、廣済堂出版、P.237)である”観自在力”を擬人化したものである。また、”観自在力”が完成した存在が仏陀であるといえる。

 なお、観世音菩薩を信仰することでもたらされる数々の現世利益については、真理を追求するうえではあまり意味がない。”何もない真空”を理解すれば、いくらか現世的な苦悩が低減する、というぐらいの理解で良いのではないかと思う。

 

P.227

・「『良家の子よ、それほど多くの〔無限の〕仏陀・世尊たちを恭敬して(得る)福徳の集積と、観世音菩薩大士をただ一度だけでも敬礼し、名前を保持するであろうものの(得る)福徳の集積とは等しく、二者のなかで(いずれかが)まさっていることもなく、すぐれていることもありえない』」

※〔 〕は筆者が挿入した。

 観世音菩薩を「敬礼し、名前を保持する」とは、”観自在力”を求めることである。その福徳は、無限の仏陀を恭敬することの福徳と等しいということである。

 

P.227-228

・「『良家の子よ、観世音菩薩大士が仏陀の姿をして衆生たちに教えを説く諸世界もあり、観世音菩薩大士が菩薩の姿をして衆生たちに教えを説く諸世界もある。ある衆生たちには、独覚の姿をして観世音菩薩大士は教えと説き、ある衆生たちには声聞の姿をして観世音菩薩大士は教えを説き、~バラモンによって教化されるべき衆生たちには、バラモンの姿をして教えを説き、ヴァジュラパーニ(執金剛神(しゅうこんごうしん))によって教化されるべき衆生たちには、ヴァジュラパーニの姿をして教えを説く。』」

 妙音菩薩品にも非常によく似た記載が見られるが(P.218~220参照)、これは、観世音菩薩と妙音菩薩がカップリングをなしていることのひとつの表れである。

 ”観自在力”であらゆる世界、すなわち、真空を見ることのできる如来たちの言葉が、あらゆる世界で”教え”として溢れるということであろう。

 

P.229

・「そこで、無尽意菩薩大士は、幾百・千(金)に値する真珠の首飾りを自分の首からはずして、観世音菩薩大士に供養の品として贈って、『善き人よ、この供養の品を私からおうけとりください』(と言った。)

 しかし、彼はうけとろうとしなかったので、そのとき、無尽意菩薩大士は観世音菩薩大士にこう言った。

『良家の子よ、あなたはこの真珠の首飾りを私たちに慈しみを示してうけとってください』

 そこで、観世音菩薩大士は、無尽意菩薩大士に慈しみを示し、~その真珠の首飾りをうけとった。うけとると、彼は(それを)二つの部分に分けた。そうしたうえで、その一つをシャーキア・ムニ世尊にささげ、いま一つを正しいさとりを得た尊敬さるべき世尊の多宝如来を祀った宝玉からなるストゥパに供えた。」

 「真珠の首飾り」は、妙音菩薩品にも登場する”あらゆる衆生の三千世界”の象徴である。それを捧げるとは、捧げる相手に自らのすべてをもって帰依するということである。

 また、観世音菩薩はそれを受け取ろうとしなかったことは、実のところ、自らは帰依の対象ではない、ということを意味しており、さらに無尽意菩薩に懇願されて受け取りつつも、二つに分け、釈迦と多宝塔に捧げたことは、真に帰依すべきは、自らではなく、この両者であるということを意味している。

 すでに上述したが、観世音菩薩は、”観自在力”の象徴である。したがって、真に帰依するのは、”音”を観る力ではなく、授記によって”音”を生み出す存在である如来と、”音”そのもの(”何もない真空”)の場である多宝塔であるということが暗示されている。”観自在力”は、その両者に帰依して修行を重ねて、自らも如来となれば、自ずと得ることができるということでもあろう。

 

P.232

・「神通力を完全に会得し、広大な知と(巧みな)方便を学習しおえているので、(観世音は)十方にあるすべての世界、あますところなくすべての国土にあらわれる。」

 完全な”観自在力”を備えた如来たちが、無限の世界を(”何もない真空”として)認識しているということ。

 

P.233

・「また、(教えを聞くことのできない)不遇な境涯や悪しき境涯への恐怖をいだいたり、地獄、畜生道、ヤマの支配のもとにいたり、生、老、病によって苦しめられている生命あるものたちにとって、(それらの苦しみは)やがてついには消滅する。」

 ”観自在力を求めれば、あらゆる生の苦しみは、仮想現実の幻影のようなものにすぎないことが理解できるようになり、その苦しみから解放されるということ。これこそが「念彼観音力」の功徳であるといえる。

 

・「澄みきった眼、慈しみの眼、知恵と知できわだった眼(力)をもつものよ、あわれみの眼をそなえ、清浄な眼をもち、美しき顔に美しき眼のある魅力あふれるものよ、」

「澄みきった~眼(力)をもつもの」とは、”何もない真空”を観る眼を持つものを意味する。また、「あわれみの眼をそなえ~るもの」とは、無生法忍を観る力、すなわち、如来の視点のことである。

 ちなみに、ここでの「眼(力)」とは、法師功徳品の「眼根」と同様の意味である。

 

・「音の世界の完全性を会得している~」

 岩波版では「音楽の奥義を極めており~」(岩波 下 P.267)となっている。素粒子のもつ微細な振動、音にならない”無限”に通じる音、つまり、”妙音”を観ているということ。

 

P.234

・「お前たちはよくよく憶念しなさい、浄らかな人、観世音を憶念して、疑ってはならない。死や苦しみや災難にさいし、彼は保護者となり、避難所となり、最後のよりどころとなる。」

 ”観自在力”すなわち、無生法忍を観る力が、すべての苦しみを超越する力となるということ。

 

・「あらゆる功徳の完成に達し、あらゆる衆生に対して慈悲の眼をそそぎ、功徳そのものであり、いわば功徳の大海である観世音を礼拝すべきである。」

 ここでの「慈悲の眼」とは、あらゆる衆生に”観自在力”を授けようとする、如来の慈愛に満ちたまなざしのことである。

 

・”世間の主の王(世自在王)”

 ある具体的な如来ではなく、”あらゆる如来”という意味である。

 

・”法の源泉(法蔵)”比丘

 上記と同様に、”あらゆる菩薩”という意味である。

 

・無量光如来

 薬王菩薩本事品の”無量の寿命”如来(P.205)と同様に、阿弥陀如来のことである。”無量光”とは、無限の光、すなわち、”観自在力”によって無限の全創造世界を観る光のことである。

 

・”一切は幻のごとし”という三昧

 衆生の見る、あらゆる世界は仮想現実であるということを気付かせてくれるような三昧であろうか。幻ゆえに、あらゆる形をとると考えると、妙音菩薩品の”現一切色身三昧”と繋がっているようにも思える。

 

・「西の方角に、幸福の源泉にして塵のない”安楽のある(極楽)”世界があって、実にそこに、衆生をよく調御される(かの)無量光という指導者がいま現におられる。」

 「”安楽のある(極楽)”世界」は、薬王菩薩本事品では「”幸福に満ちた(安楽)”世界」となっているが(P.205)、要するに、無量光如来の仏国土のことである。

 妙音菩薩品の、東の方角にある、浄華宿王智如来の浄光荘厳世界と好対照をなしており、興味深い。

 ちなみに、法華経では、西の方角は過去(無)を表し、東の方角は未来(無限)を表している。

 

P.235

・「彼(観世音)も同じく(この)世間の指導者であって、~」

 岩波版では、「彼」は無量光如来と解釈されているが(岩波 下 P.269参照)、文脈から考えると、この中公版の訳のほうが妥当であるように思える。

 

・「『世尊よ、(この)法門(『法華経』)のなかの観世音菩薩大士についてのこの章~を聞くであろう衆生たちあ不十分な善根をそなえたものではないでありましょう』」

 ”観世音菩薩(=無生法忍を観る力)に気付いた者、または、それを見極めると心に決めた者は、十分な善根を持つものであるということ。

 

P.235-236

・「さらにまた、この『あらゆる方向に門の開かれた』の章が世尊によって説かれたとき、その衆生のなかで、八万四千の生命あるものたちが、この上ない至高の正しい菩提に向け心を起こした。」

 ”観自在力”を極めて、無生法忍を見極めようと、菩薩や四種の会衆をはじめとする、あらゆる生命が心を起こしたということ。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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