(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)
P.105-106
・三たびの問い
釈迦の「良家の子らよ、私に信頼をおきなさい、真実のことばを語る如来を信じなさい」という三度の呼びかけに対して、マイトレーヤを始めとする菩薩の全集団が「世尊はそのわけをお話ください」と三たび懇願するという、非常に印象的な場面である。
ちなみに、方便品においても、シャーリープトラが三たび仏陀の知について説くことを懇願したが、仏典においての”三たびの懇願”は重要なことを質問する際の一種の”作法”となっているようだ。原始仏教の経典『マッジマ・ニカーヤ』においても、初転法輪の五比丘が三たび釈迦がさとりを開いた理由を聞いているし(中村元、『ブッダ伝 生涯と思想』、角川ソフィア文庫、P.93)、同じく原始仏教の経典『スッタニパータ』においてもモッガラーナが三たび”空”について質問している(同書、P.297)。
P.106
・「『たとえば、良家の子らよ、ここの一人の男があらわれて、その人が五百万・コーティ・ナユタもの世界にある地の要素の元素(のなかから)、一個の原子の塵を手にもって、東の方角に向かって五百万もの無数の世界を通り越してから、その一個の原子の塵を下に置くとしよう。このような仕方で、幾百・千・コーティ・ナユタ劫もかかって、その男がそのすべての世界の地の要素をなくならせるとしよう。そして、このような仕方、このように目印を置くというやり方で、その地の要素の原子の塵をすべてみな東の方角に置くとしよう。良家の子らよ、それをお前たちはどう思うか。だれかがこれらの世界(の数)を考えたり、数えたり、量ったり、見積ったりすることができるであろうか』
このように言われたとき、マイトレーヤ菩薩大士とかのすべての菩薩の集団、菩薩の群れは、世尊に次のようにお答えした。
『世尊よ、それらの世界は数えきれず、計算できず、思惟の及ぶ領域を超えています。~』
このように申し上げたとき、世尊はそれらの菩薩大士に次のようにお告げになった。
『良家の子らよ、~およそかの男が原子の塵を置いた世界、あるいは置かなかった世界、良家の子らよ、それら幾百・千・コーティ・ナユタもの世界のなかにある原子の塵といえども。私がこの上ない正しい菩提をさとってから経てきた幾百・千・コーティ・ナユタもの劫(の数)ほど、それほど多くはないのである。』」
いわゆる「五百(億)塵点の喩」である。化城喩品にも同じような比喩が見られる(こちらは「三千塵点の喩」と呼ばれる。Ⅰ P.168参照)。
要するに、(本仏としての)釈迦がさとってから経った年月は、数量の概念を超えているというのである。
ちなみに、仏教学者の植木雅俊氏の計算によれば、三千大千世界には10の64乗個の原子が存在し、その原子の数だけの劫の年数が「三千塵点劫」となる(植木雅俊著 『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.153)。また、「五百塵点劫」は、三千大千世界の10の179乗倍の過去になるという(同書、P.204)。ビッグバンから現在まで137億年(1.37×10の10乗年)と言われるが、それどころの話ではない。
さらに、法華経では、東が無限、西が「何もない真空」を表している。観世音菩薩普門品で、西方で阿弥陀如来に仕える観世音菩薩があらゆる世界を遊歴するとあるが、これは、「何もない真空」に精神が属する如来が無限の世界を認識していることを意味し、これが「観自在力の完成」であると小宮氏は語っている。東方の世界に塵が一つずつ置かれるというのは、釈迦が無限の世界を観ているということを意味する。すなわち、この「五百塵点」の数をも上回る数の世界が釈迦が観た無限の大きさということになる。
この章では、無限の世界の数を時間に置き換えて、「如来の寿命は無限である」という言い方をしているが、如来の寿命の長さはさておき、ここは釈迦が認識した無限の大きさにフォーカスを当てて読んだ方がよい。おそらく、それを示すのが法華経の筆者の真の狙いではないだろうか。
P.108
・「『さらにまた、良家の子らよ、如来は、次々にやってくる衆生たちに能力と精進努力の優劣の相違があることを見きわめて、それぞれ(の世界)において(それぞれ異なる)自分の名を述べ、それぞれ(の世界)において自分が完全な涅槃に入ると告げ、種々の法門のよってそれぞれの仕方で衆生たちを満足させるのである。』」
ここでの「如来」は、”釈迦如来”や”ディーパンカラ如来”といった個別具体的な如来ではなく、すべての如来の集合体、すなわち”本仏”としての如来である。
その”本仏”としての如来がそれぞれの世界において、それぞれ異なる”迹仏”としての名前で、教えを説くというのである。
P.109
・「『~如来は、三界とは、生まれず、死せず、消えず、あらわれず、輪廻せず、涅槃せず、真実でもなく、虚妄でもなく、あるのでもなく、ないのでもなく、このあり方でもなく、別のあり方でもなく、虚偽でもなく、真理でもない、とありのままに見るからである。如来は愚かな凡夫たちが見るような仕方で山界を見るのではない。実に如来はこの道理について(ありのままに)直証するという性質あるものであって、(いささかも)喪失させるという性質のないものである。』」
P.106の「五百(億)塵点の喩」では、釈迦がさとった無限の大きさが語られているが、ここでは、その無限のあり様について語られている。三界とは、欲界(3~8次元)、色界(9~11次元)、無色界(12次元)の存在世界のすべてのことであるが、それは、「生まれず、死せず、消えず、あらわれず…」というように、否定形でしか表せない。すなわち、一切の言語的表現を超えたものである。
そこには、人の想像できる範囲内であるかどうかを問わず、あらゆる平行世界が重なり合っているといえる。これは、すなわち、存在世界の”全情報”である。また、それは「(いささかも)喪失させるという性質のないもの」、すなわち、「ものは本来生ずることがないことを認容する知(無生法忍)」の認識するところのものである。
如来は、最高度の観自在力と無生法忍の視点より、全創造世界をそのように観ているということである。
・「『実に、良家の子らよ、如来は如来がなすべきことをなすのである。』」
この章では、如来の方便のことに焦点が当たっているように読めるが、筆者らの立場では、如来の最大の”なすべきこと”は、授記により教えを弟子たちに承継させることである。そして、全創造世界を完成に導くことである。
P.109-110
・「『如来はかくも遠い以前にさとりをひらき、量り知れぬ寿命の長さを有し、常に現存して完全な涅槃にはいったことはないが、如来は(衆生を)教化するために完全な涅槃をあらわしてみせるのである。しかも、良家の子らよ、いまもなお、私の過去の菩薩としての修行は完成されていないし、寿命の長さもいまだ満ちていないのである。』」
上述したように、如来の「無生法忍」的な見方では、完全な涅槃にはいるとか、菩薩道が完成するとかということも当てはまらない。つまり、(本仏としての)如来のあり方に完成はないということである。それは如来が入滅し、寿命が尽きることもないということである。如来が入滅したように見えるのは、あくまでも3次元の不完全な世界において見られる事象である。
この点について、小宮氏は著作で次のように記している。
「お釈迦様は、このような無限の世界で、さまざまな如来になって、あちこちで教えをといてきたのです。その数は、ある男が、世界中の微粒子を東の方へ並べるよりも多い、つまり数えることも推測することもできない無限ということです。
仏教では東は無限の世界を表し、西は真空の世界を表します。
如来の寿命というのは、有限ではなく無限であり、常に、そして永遠に存在します。時間も空間もなく、初めからすべてがあるのです。永遠に修行も終わらず、広がり続けている無限です。
これが如らが悟った無限であり、そして同時に「何もない」ということなのです。初めから真空であり、今も真空であり、永遠に真空であり続けるのです。
そしてこの真空が、三次元世界に形を持った時だけ、この無限を言葉にして表すことができるのです。
如来の寿命は満ちることなく、完全な涅槃に入ることはありませんが、三次元世界では涅槃を表してみせることができるのです。」
(奥平亜美衣、小宮光二、『真訳 法華経』、廣済堂出版、P.169-170)
P.111
・良医病子の喩・自我偈
「良医病子の喩」は法華七喩の一つであり、「自我偈」は本章の最後の詩句の部分である。これらは大変有名な箇所であり、解説したWebページや書籍が多数あるので、伝統的な理解については、そちらを参照していただきたい。ここでは私見を述べさせていただきたい。
「良医病子の喩」と「自我偈」の両者において、また、本章の随所において「如来が入滅して見せるのは、方便である」ということが強調されているが、「現実には如来には人としての寿命があり、如来の寿命が無限することと矛盾するではないか」と問われてもいないのに、あらかじめ読者の疑念に言い訳をしているようにも読める。せっかく、如来の観る世界の壮大な無限性を説いているのに、この言い訳がましさが話を矮小化させているようなきらいがある。
また、本章の真の狙いは、如来の観た無限を示すことであり、如来の寿命や、入滅する・しないという話は、10次元的な従地涌出品から11次元的な本章に話を誘導するための(俗な意味での)方便にすぎないとも考えられる。
しかし、筆者はこの”方便”にも重要な意味があると考えている。
筆者は、かつてチベット密教の修行法を実践していたことがあるが、その経典では、努力目標を”あるべき姿”として記述されていることが多かったようだ。たとえば、「およぞ8回の呼吸で(瞑想でのイメージの)炎が下腹部からへそ付近まで達する」というような記載は、実際は、「そうなるように努力せよ」という意味が含まれているという(高藤聡一郎、『秘伝!チベット密教奥義』、学習研究社、P.120参照)。このような読み方は、法華経にも通じるのではないかと思う(実際に、この見方で読んだほうが、後述する法師功徳品などが格段に理解しやすくなるような気がする)。
この読み方によれば、たとえば、「如来に会うことを渇望するであろう」(P.111)は「如来に会うことを渇望せよ、そうなるほどに修行せよ」という意味合いにとれる。
もう一つ、着目すべき点は、入滅した如来は「良薬」をこの世界に置いているという点である。「良薬」というのは、むろん、”正しい教え”、法華経のことである。
すなわち、「如来を信じよ。会うことを渇望せよ。そうすれば必ず良薬を手にすることができるであろう。お前たちの手の届くところに置いておいたのだから。良薬を飲む(法華経を読む)ことにより、私にまみえることになるであろう」というように読めはしないだろうか。もしそうであれば、この「良医病子の喩」や「自我偈」は、如来無き世に生まれてしまった菩薩への慈悲深いメッセ―ジと読めるのではないかと思う。
また、今生で如来となる一生を送る菩薩も、そのような如来不在の世界に生まれてしまった菩薩といえる。そう考えれば、その”次の如来”も良薬を手にすることになるのだから、西方、像法、末法、最末法の文明流転の仕組みを暗に示したものという読み方も出来よう。
ちなみに、イエス・キリストがよく口にしたという「父上」という言葉は、この「良医病子の喩」に由来するという。良薬を置いた仏の慈悲を、イエスなら、”父上の愛”と呼ぶことであろう。