(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)
P.84
・他の世界からやってきた菩薩たち
見宝塔品において、釈迦が眉間の白毫から光を放つと、十方の方角にある無数の仏陀の国土が明るく照らし出され(P.26~27)、そのすべての仏陀の国土の如来たち、すなわち未来仏たちは、自らの従者である2人あるいは3人の菩薩たちとともに、釈迦のサハー世界へ参集してくる(P.27~28)。
ここでの「他の世界からやってきた菩薩たち」とは、その未来仏たちの従者である数人連れの菩薩たちのことである。
・「『もし世尊が私どもにお許しくださいますならば、世尊よ、私どももまた、如来が完全な涅槃にはいられたのちに、このサハー(娑婆)世界においてこの法門を説き明かし、読誦し、書写し、供養し、この法門のために努力を尽くしたいと思います。ですから、世尊はよろしく、私どもにこの法門を(説くことを)お聞き入れください』」
見宝塔品において、多宝如来と並んだ釈迦如来は「このサハー世界において、この”正しい教えの白蓮”という法門を説き明かすことに努めるものはだれか。如来が面前にいるいまが、その(誓いを述べる)ときである」と、会衆に誓願を促し、勧持品において、薬王菩薩や大楽説菩薩たちがいち早く誓いを述べ、その後、八百万・コーティ・ナユタもの不退転の菩薩たちも、戸惑いながらではあるが、誓いを立てた。
それに続くかたちで、「他の世界からやってきた菩薩たち」が、”釈迦如来の”サハー世界で教えを広めさせてほしいと、彼に許しを願い出ているのである。
P.84-85
・「『良家の子らよ、やめよ。お前たちがこの仕事を行なってなんになろう。良家の子らよ、ここなる私のサハー世界には、六万のガンガー河の砂の数にも等しい菩薩たちがいる。で、このような菩薩たち一人一人の菩薩の従者が、また同じく、六万のガンガー河の砂の数に等しい菩薩たちなのであり、(さらに)そのおのおのの菩薩たちにちょうどそれ(と同じ数)の従者がいるのである。これらのもの(すべて)が、私が完全な涅槃にはいったのちの時代、のちの時節に、この法門を受持し、読誦し、説き明かすであろう』」
上述の「他の世界からやってきた菩薩たち」の願いを、釈迦は「やめよ」と一蹴する。これまで、教えを広めることの誓願を求めていた釈迦であるが、「他の世界」から来た彼らには、それは無用であると突っぱねたかたちとなり、読み手としては、首をかしげたくなる部分であるかもしれない。
しかし、ここが一つのポイントで、後述する「地涌の菩薩」たちにより、読み手である「他の世界からやってきた菩薩たち」、すなわち”未来の如来たち”に、無限億土(釈迦の授記を起点とする無限の仏国土の集合体)の創り方を伝授しているのである。
P.85-88
・「世尊がこのことばを述べおわるやいなや、そのとき、このサハー世界はいたるところが割れて裂けた。そして、その裂け目の内部から、幾百・千・コーティ・ナユタもの多くの菩薩が現れ出た。彼らは金色の身体と偉大な人物のもつ三十二の相をそなえたものたちで、この同じサハー世界を住処とし、この大地の下にある虚空界にとどまっていたのであるが、世尊のこのようなことばを聞いて、地下からあらわれ出たのである。~」
釈迦が育てた「地涌の菩薩」たちの出現の場面の冒頭である。内容の理解の上であまり重要でないので割愛するが、ここでの言語的表現の限界に挑戦したかのような、膨大な数の菩薩たちの数的表現には圧倒される。
ここでの「大地の下にある虚空界」であるが、釈迦の解脱した弟子たち、すなわち「地涌の菩薩」たちの住む仏国土ないし「何もない真空」と理解してよい。「地涌の菩薩」たちの出現は、そのような仏国土に戻った彼らが、”釈迦如来の”サハー世界で教えを広めるために再び現れ出たということになる。
・地涌の菩薩たち
見宝塔品において、釈迦が多宝塔の頂上において多宝如来に並んだことにより、釈迦が彼自身の法華経をいったん説き終え、入滅の段階に入ったことになる。言い換えれば、”釈迦如来の”サハー世界は”終わった世界”となったということである。この”終わった世界”で”釈迦如来の”法華経を広めてきた授記で繋がる菩薩たちが、この世界の「地涌の菩薩」たちということになる。また、天台智顗や、最澄、日蓮などの”釈迦如来の”法華経を広めることに尽力した歴史に名高い僧侶たちも、いわば、この”終わった世界”の「地涌の菩薩」たちである。
他方、この”終わった世界”を外から見ているのが、「他の世界からやってきた菩薩たち」である。彼らは、時系列を無視したかたちで同時に示される、無限の世界の誕生・発展・完成を見ていることになる。すなわち釈迦如来(誕生)・「地涌の菩薩」(発展)・多宝如来(完成)の三者を同時に見ているのである。
ところで、法華経は”如来が如来に語る教え”、すなわち、今生に如来となる一生をおくる菩薩に対するメッセージというかたちを取っている。そのような”新たな如来”に「地涌の菩薩」の一員となるのではなく、自らの無限の世界を創造せよ、というのが釈迦が「他の世界からやってきた菩薩たち」に「やめよ」と言った真意である。これが本当の意味で理解できるのは、無生法忍を得た”新たな如来”だけであると小宮氏は語っている。釈迦のサハー世界の外側で、新たな無限億土を創造するのが”新たな如来”の仕事であるといえる。
ちなみに、「他の世界からやってきた菩薩たち」と「地涌の菩薩」たちは本質的には同じ存在である。両者を区別するのは視点の違いだけである。すなわち、釈迦の完成した世界(仏国土)という視点で見れば、「地涌の菩薩」たちとなるし、その完成した世界とは別の世界(仏国土)という視点で見れば、「他の世界からやってきた菩薩たち」となる。両者とも、究極的には、入滅したすべての如来、すなわち多宝如来となる存在である。両者とも本質的には同じ存在であるが、どの如来の授記を起点として構成されているのか(どの如来の仏国土に属するのか)で違うのである。
なお、学術界は、「このサハー世界」を”3次元世界全体”と読んでいるようである。また、「地涌の菩薩」たちを、属する仏国土を一切区別せずに”法華経を広める菩薩一般”と読んでいるようである。そこには”見るもの”と”見られるもの”の視点の違いはなく、”無限の世界の創造”という発想も感じられない。これでは解釈として不十分な感がある。
P.88
・「さらにまた、その菩薩の大集団、菩薩の大群には次のような四人の菩薩大士がいて、その(集団の)首座(の指導者)であった。すなわち、
・”すぐれた修行を行なうもの(上行)”という名の菩薩大士と
・”無限の修行を行なうもの(無辺行)”という名の菩薩大士と
・”清浄な修行を行なうもの(浄行)”という名の菩薩大士と
・”よく確立された修行を行なうもの(安立行)という名の菩薩大士である。」
ここで、無数の「地涌の菩薩たちの指導者である4人の菩薩が表れ、釈迦に対してご機嫌伺いをする。
小宮氏は、この4人の菩薩について、それぞれ、普賢菩薩、観世音菩薩、妙音菩薩、薬王菩薩に対応していると説明している。さらには、天台智顗が説いた四弘誓願(菩薩が起こす4つの願い)と自然界の4つの力ともリンクしているという(『真訳 法華経』、廣済堂出版、P.164)。
参考までにこの対応関係を図に示す(同書、P.164参照)。
次元構造 | 地涌の菩薩 | 法華経の各章の菩薩 | 状態 | 四弘誓願 | 自然界の4つの力 |
11次元 | 上行菩薩 | 普賢菩薩 | 如来となり弟子を解脱させ法華経の伝道を誓わせた状態 | 仏道無上誓願成 | 重力 |
10次元 | 無辺行菩薩 | 観世音菩薩 | 真空のあらゆるものを観ている状態 | 法門無尽誓願学 | 弱い相互作用 |
9次元 | 浄行菩薩 | 妙音菩薩 | 解脱して輝ける仏国土へ行き、また閻浮提に生まれ変わって法華経を説いている状態 | 煩悩無量誓願断 | 電磁気力 |
8次元 | 安立行菩薩 | 薬王菩薩 | 法華経を広めようという意志を持った状態 | 衆生無辺誓願度 | 強い相互作用 |
P.90
・「さらにまた、そのとき、マイトレーヤ(弥勒(みろく))菩薩大士とその他の(他の世界からきた)~菩薩たちに、次のような考えが浮かんだ。
『このような菩薩の大集団、菩薩の大群が大地の裂け目からあらわれ出て、世尊のおん前に立ち、供養し、尊重し、尊敬し、供養し、世尊のご機嫌をうかがっているが、彼らを私たちをいまだかつて見たこともなければ、聞いたこともない。いったい、これらの菩薩大士はどこからやってきたのだろうか』」
序品につづき、マイトレーヤ(弥勒)は再び驚異の念とともに疑問を持つ。今度は「無限の地涌の菩薩たちは、いったい、どこから現れたのであろうか」と思うのである。この疑問が次章の如来寿量品に繋がってゆく。序品と同じく、絶妙なタイミングでの問いである。
ちなみに、釈迦はこの後、マイトレーヤらの心を読み取って回答するが(見宝塔品以降、このような”読心”の場面が増えている)、このあたりは、存在の高次元におけるテレパシーのようなものであろう。
P.95
・「さらにまた、(先に述べたように、)世尊であるシャーキア・ムニ如来の化作された(分身)で、別の世界にいて衆生たちに教えを説いていた、~如来たちが、~シャーキア・ムニ如来のまわりで、~坐っていたのであるが、これらの~如来たちの各自の侍者たちも、その同じときに、かの菩薩の大集団、菩薩の群れがあたりくまなく大地の裂け目から現れ出て、虚空界にとどまっているのを見て、驚異の念に打たれ、それらおのおのの自分の如来に次のように申し上げた。
『世尊よ、かくも多くの無量にして無数の菩薩大士たちは、(いったい)どこからやってきたのでしょうか』」
「シャーキア・ムニ如来の化作された(分身)」である如来たちとは、見宝塔品の注釈でも説明したが、釈迦の平行世界(三千世界)の彼自身のことであると考えられる。
この平行世界においても、同時に「地涌の菩薩」たちの出現が目の当たりにされ、「いったい、この菩薩たちがなぜ現れたのか」と従者である菩薩たちが、マイトレーヤと同じ疑問を持つのである。これは、すべての平行世界で同じことが同時に起きているというシンクロニシティを表現したものであろう。
P.96
・「『良家の子らよ、お前たち、しばらくのあいだ待ちなさい。あのマイトレーヤという菩薩大士は、シャーキア・ムニ世尊にすぐつづいてこの上ない正しい菩提にいたるという予言をうけているものであるが、彼が~シャーキア・ムニ如来にこのわけをおたずねしているし、~シャーキア・ムニ如来が明らかに説明してくださるであろう。だから、お前たちは(それを)お聞きするがよい』」
上述の釈迦の平行世界の如来たちが、自らの従者の菩薩たちに、「マイトレーヤという菩薩の問いにシャーキア・ムニ如来が答えようとしているからしばし待て」と言いながら、マイトレーヤにこの問いの代表を託そうとしている。これは、平行世界が各々独立しながらも、繋がっているということを表しているのであろう。
ちなみに、マイトレーヤが「シャーキア・ムニ世尊にすぐつづいてこの上ない正しい菩提にいたるという予言をうけているものである」と記載されているが、法華経成立当時(紀元後1世紀頃)は、このような”弥勒菩薩待望論”がさかんであったようだ『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.112-113参照)。
P.99-100
・「そのとき、マイトレーヤや菩薩大士と、かの百・千・コーティ・ナユタもの多くの菩薩たちは、驚異の念をいだき、稀有の思いをし、不思議さに打たれて、『いったい世尊は、〔菩提樹の根もとでさとりを開いた後の四十年間という〕この束のまの暮らしのあいだに、わずかな期間のあいだに、どのようにして、かくも多くの数えきれない菩薩大士をこの上ない正しい菩提へ(の道に)励まし入れ、成熟させられたのだろうか』(と考えた。)」
※〔 〕内は筆者が挿入した。
マイトレーヤからの2つ目の疑問。上述したように、マイトレーヤらは、「この地涌の菩薩たちはいったいどのようにして生まれてきたのか」と疑問に思うが、それに対し、釈迦は「これらの地涌の菩薩たちは私が育て上げた」と告げる(P.96~99)。
そこで、この2つ目の疑問となるのであるが、マイトレーヤらは「世尊よ、あなた様が自らこの無数の菩薩たちを育て上げたと仰いますが、あなた様がさとりを開いてからわずか40年程しか経っておりません。それは容易には信じられません」というのである。
ここで、多少乱暴かもしれないが、本章から次章(如来寿量品)にかけての問答を簡潔に示す。
①弥勒:「この無数の菩薩たちはいったいどのようにして生まれてきたのか」
②釈迦:「これらの菩薩は私が育て上げた」
③弥勒:「わずか40年程でこの無数の菩薩を育てたとは信じられない」
④釈迦:「私の無限の寿命の中で彼らを育て上げたのだ」(如来寿量品)
ところで、如来寿量品は③の問いの答えるかたちで説かれるのだが、小宮氏も指摘しているように①の問いの答えにはなっていない。実は、②の答えから話の筋が微妙に変わってきているのだ。これは一種の誘導ともいえるかもしれない。
誤った誘導であれば、非難されるべき”誤導”となってしまうが、法華経の場合はそうではない。如来寿量品で説かれる”永遠の命を持つ仏”について考えることは、生命進化の上で非常に重要なことである。ここには、法華経を語るうえで必要不可欠なエッセンスが秘められているのである。
この誘導も、いわば、釈迦の”巧みな方便”といってよいかもしれない。