法華経の注釈集 分別功徳品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)

P.119

・「福徳」

 この章のサンスクリット語からの和訳タイトルである。「一品二半」という言葉があるように、法華経においては、従来、如来寿量品や従地涌出品の後半とともにこの章の前半が特に重要視されてきたが、”福徳”という言葉が示すとおり、この章は、如来が観る無限について理解を深めることで得られる効果が論じられている。

 また、この章以降の二つの章(随喜功徳品・法師功徳品)においても”効果論”が続いている。つまり、”如来の知”への志向(”分別”を得ること)の重要性が説かれ、随喜功徳品によって”分別”をもって教えを喜んで聞く者の福徳が説かれ、法師功徳品によって”法師”への覚醒が説かれるという流れになっている。

 そして、その次の常不軽菩薩品で究極の”法師”像について示し、如来神力品で”法師”たちが創る融通無碍の世界について語られているのである。

 

・「『ところで、アジタ(阿逸多(あいった))よ、この”如来の寿命の長さの説示”という法門がとかれているあいだに、六十八のガンガー河の砂(の数)に等しい幾百・千・コーティ・ナユタもの菩薩たちが、ものは本来生ずることがないと認容する知(無生法忍)を得た。』」

ここでの「アジタ」とはマイトレーヤ(弥勒)菩薩のことで、「如来の寿命の長さの説示」とは如来寿量品のことである。如来の無限の寿命の長さは、如来が観る計数を超えた世界の数であり、その無数の世界を「すべてがそこにある」と認識する作用が無生法忍であるので、如来寿量品が説かれて菩薩たちがそれを理解するというのは理解しやすいのではないかと思う。

 

P.124-125

・「『アジタよ、この”如来の寿命の長さの説示”という法門が説かれているあいだに、衆生たちがわずか一度でも(菩提を求める)心を起こそうとする志向(一念信解)を生じるなり、信仰心を起こすなりしたとしよう。その良家の息子あるいは娘たちは、どれほどの福徳を生むであろうか。~それはあたかも次のようである。

 だれかある良家の息子にせよ娘にせよ、この上ない正しい菩提を求めて、八百・千・コーティ・ナユタ劫ものあいだ、五種の完成―すなわち、知恵を除く、布施、戒律、忍耐、精進努力、禅定の完成―において努力したとしよう。

 アジタよ、他方、良家の息子にせよ娘にせよ、この”如来の寿命の長さの説示”という法門を聞いて、わずか一度でも(菩提を求める)心を起こすなりしたとしよう。

 この(後者)の福徳の集積、善(根)の集積に比べれば、~〔前者は後者の〕百分の一にも及ばない。~

 アジタよ、このような福徳の集積を備えた良家の息子あるいは娘が、この上ない正しい菩提から退くという道理はない』」

※〔 〕は筆者が挿入した。また、適宜改行を施した。

 ここで、興味深い例えが示されている。それは六波羅蜜のうち、智慧を除く5つと智慧とどちらが優れているかというものである。ここでの”智慧”とは、如来の観る無限について知ろうとして起こる知の志向(一念信解)である。

 智慧を欠いた”五波羅蜜”は意味の薄い苦行でしかない。これでは単なる”瘦せ我慢”である。他方、智慧は最高の真理に至る道である。天台智顗は、六波羅蜜のうち智慧を最も重視したという(彼の大著、『摩訶止観』の”観”は、彼なりの智慧の表現である)。

 このような智慧の重要性に気付くことが、”分別”ということではないだろうか。

 

P.128-129

・「『そして、アジタよ、良家の息子にせよ娘にせよ、この”如来の寿命の長さの説示”という法門を聞いて深い願いをもって信順する(深心信解)ならば、その深い願いの特徴は次のようであると考えねばならない。すなわち、そのような人は、私がグリドラクータ山において菩薩の集団にかこまれ、菩薩の集団に崇められ、声聞の集団の中央にいて教えを説いているのを見るであろう。』」

 ここでは、「”如来の寿命の長さの説示”という法門」について信順する人の特徴について説かれているが、そのような人は過去世においてすでに授記を得ており、法華経を通して、仏国土において釈迦にまみえるというのである。

 小宮氏は自身の著作において以下のように語っている。

「わが弟子たちよ、如来が自分自身の完全なる悟りに達する時期に至ったことを察し、同時に弟子たちの心が清浄で、世間の下らぬ欲得から完全に離れ、解脱し、真空となり、如来に帰依する心が確立し、その心が完全に無に同化したことを確認すると、如来は最後に自ら悟った完全なる宇宙像を弟子たちに語り、託し入滅するのである。そしてあなた方は生まれ変わったその世界において、自らの過去世の菩薩であった姿とその前に蓮華座を組む如来の姿とを見るのである。」(小宮光二著 『釈迦が語る宇宙の始まり』、Clover出版 P.197)

 上記は、化城喩品の一節を現代的な解釈で書き直したものであるが、文末に分別功徳品のエッセンスも取り入れられているように思える。

 

P.129

・「『したがって、この法門を書物にして肩に担う人は、如来を肩に担う人である。』」

 法師品にも同様の表現がある。P.11参照。

 

P.129-130

・「『アジタよ、その良家の息子あるいは娘は、私のためにストゥパを建てたり、精舎を建てたりする必要はなく、比丘たちの集団に病を癒す薬品(など)の生活必需品を布施する必要もない。それはなぜかといえば、アジタよ、(この法門を受持し、読誦する)その良家の息子あるいは娘は、すでに私の遺骨(舎利)に遺骨供養を行なったことになり、~七宝からなるストゥパを建てたことになるからである。』」

 法師品にも同様の表現がある。P.15参照。つまり、「この法門を受持し、読誦する」ような菩薩のもとには、「多宝塔」(11次元的な”何もない真空”あるいは”統一場”)が現れるようになり、現実の供養は必要ないということを言っている。

 

P.131

・「『アジタよ、かの良家の息子にせよ娘にせよ、この法門を受持したり、読誦したり、教示したり、書写したり、もしくは書写させたりするならば、あたかも虚空界が東・西・南・北・上・下の各方角や、その中間の方角に無限であるように、量り知れず数えきれない仏陀の知に導く福徳の集積を生み出すであろう。』」

 「あたかも虚空界~無限であるように」の記述は、釈迦が見た”五百(億)塵点”の無限の世界をきわめて簡潔にまとめた表現のように思える。

 

・「『その人は如来の塔を恭敬するために専心し、~』」

 ここでの「如来の塔」は、P.130の「七宝からなるストゥパと同様に、「多宝塔」を意味している。

 

p.132

・「『また、アジタよ、その良家の息子あるいは娘が立ったり、坐ったり、経行したりするところには、アジタよ、如来のための塔が建てられねばならない。そして、それは神々をふくむ世間の人々によって、『これは如来のストゥパだ』と言われねばならない。』」

 上記P.129-130の注と同趣旨。

 

・「人中の指導者(仏陀)が涅槃にはいったあとで、この経典を受持する人があれば、~

その人は私を供養したことになり、(数々の)遺骨のストゥパを建てたことになる。~」

 上記P.129-130の注と同趣旨。

 

・「あたかも虚空界が十方において常に限りないように~」

 上記P.131の注と同趣旨。

 

P.135

・「(この)経典から一詩頌でも唱えつつ、そのような賢者が経行するところ、立ったり坐ったりするところ、あるいはどこにせよ(その意志)堅固なものが寝台を設けるところには、

指導者である仏陀・世尊のために、すばらしく美しい、人中の最高者(である如来)のストゥパを建てるべきであり、そこですばらしい供養を行なうべきである。」

 上記P.129-130の注と同趣旨。なお、ここでの「供養」は実際の供養ではなく、「この法門を受持する」ことであろう。

 

・「かの仏陀の息子(仏子)がいる地上の場所、それを私は享受し、そこで私みずから経行し、そこに私自身腰をおろすであろう。」

 上記P.128の注と同趣旨。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です