法華経の注釈集 安楽行品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)

P.62

・安楽な生き方

この章のタイトルの現代語訳である。「安楽行」を「『安楽な行』ではなく『安楽な境地に住するための行』」であるとし、この章を”戒律”について説いたものであるとする考え方もあるが(『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.187参照)、はたしてそうであろうか。筆者は文字通り、「安楽な行」とあえて読むのが正しいのではないかと思う。

『法華経』の面白さにはまると、世俗のくだらない遊興や娯楽は、自ずと色褪せたものとなってしまうように思う。そして、本章で説かれる、正しい交際範囲や考え方が自ずと身につくように思う。そのような境地にこそ、安楽があるのではないだろうか。そのような意味で、「安楽行」は文字通り、「安楽な行」ととらえるのが正しいのではないだろうかと思う。

本章を、教条的な「べからず集」と読むのでは読む実益が乏しい。当ブログでは、独自の視点、すなわち、”新仏教”という視点で注釈を述べたいと思う。

 

・「そのとき、マンジュシリー法王子は世尊に次のように申し上げた。

『世尊よ、なしがたいことです。かの菩薩大士たちが、世尊に対する尊敬心をもって(この法門を説きひろめるために)たゆまぬ努力を尽くすことは、まことになしがたいことです。世尊よ、これらの菩薩大士は、どのようにすれば、のちの時代、のちの時節に、この法門を説きひろめることができましょうか』」

前章で、八百・コーティ・ナユタもの”半人前”の菩薩たちが、「どうしたら法華経をこの恐ろしいサハー世界で広められるだろうか」ととまどいながらも、説き広めることを誓ったが(P.57~58参照)。彼らに同情してマンジュシリー法王子は「なしがたいことです」と言っているのである。そして、「どのようにすればそれはできるのでしょうか」と釈迦に問いかけているのである。

 

・四種のあり方(四法)

本章はマンジュシリー法王子の問いに答えるかたちで、釈迦が菩薩がとるべき「四種のあり方」について説くという構成になっている。「四種のあり方」とは、以下の四つのことである(P.274参照)。
①身安楽行(P.62 10行目以下)
②口安楽行(P.69 5行目以下)
③意安楽行(P.72 1行目以下)
④誓願安楽行(P.74 9行目以下)

なお、「四法」一般的な解釈の説明は他の類書にゆずり、上記したように、当ブログでは独自の視点で注釈を述べたい。

 

P.63

・「『マンジュシリーよ、菩薩大士が忍耐強く、温和で、心の調御された境地に到達し、その心がおそれおののかず、憤りをあらわすこともなく、さらに、マンジュシリーよ、菩薩大士がなにもの(法)にもとらわれないで、(すべての)ものの独自の相をありのままに観察するとき、実にそのとき、彼がこれら(すべて)のものについて、みだりに思いめぐらさず、分別を加えないこと、マンジュシリーよ、このことが菩薩大士の善き行ないといわれるのである』」

釈迦は「四種のあり方」の一つ目として、まず「善き行ない」と「正しい交際範囲」について説く(身安楽行)。とくに「善き行ない」とは「なにもの(法)にもとらわれないないで(すべての)ものの独自の相をありのままに観察する」こと、すなわち、あらゆるものを「空」としてみることである。これを量子学的な言葉で言うのなら、ものごとを”確定”した”粒”の状態ではなく、”不確定”な”波”の状態としてみるということになろうか。

 

P.64

・「『~彼はそもそも教えに執着して教えをとくことさえもない~』」

大変意味深な言い方であろうように思える。解脱の心境を得た者は、一つの見解に固執することはないということであろう。

釈迦は神の存在について、信じる者には「いない」と説き、信じない者には「いる」と説いたという。普通は相矛盾する教えに当惑するほかないが、悟りの視点からみれば、それは何ら矛盾しないということになるのであろう。おそらく、神は”いるでもなく、いないでもない”という不確定な”波”の状態のなかにあり、信じる、あるいは、信じないという、ある視点を持つことにより確定するのであろう。

 

P.65

・「『さらにまた、マンジュシリーよ、菩薩大士は、あらゆるものを空であると観察する。(すなわち、あらゆる)ものは正しく確立され、無倒錯の状態に置かれ、ありのままの状態を保ち、動かず、動かされず、逆転せず、変化せず、常にありのままの状態を保ち、虚空のごとき本性のもので、ことばの解釈や表現を離れ、生まれず、生ぜず、つくられたものでもなく、つくられることのないものでもなく、あるのでもなく、ないのでもなく、ことばで言いあらわされず、執着を離れた状態にあるが、観念の倒錯によってあらわし出されたものである(と観察する)』。」

釈迦が”正しい交際範囲”に安住した暮らしとはどういうものか説いている箇所の一部である。すなわち、あらゆるものを「空」とみながら、世俗の者たちとは一線を画して暮らすことができれば、彼は”正しい交際範囲”にあるというのである。

 

P.67

・「(また、菩薩大士が、)劣れるもの、すぐれたもの、中くらいのものにも、また、つくられたもの(有為)、つくられることのないもの(無為)にも、さらに、真実のものにも、虚妄なものにもまったく執着せず、

(さらに、その)賢者は「この人は女である」ともとらわれず、「この人は男である」とも分別すべきではない。あらゆるものは不生であるから、それらを求めながらも、彼がそれを見ないならば、

実に、これが菩薩たちの善き行ないといわれるもののすべてである。」

詩句の部分における、「菩薩たちの善き行ない」の説明の一つである。何ものにもとらわれず、定まった見解をとらない、すなわち「空」を体現したような境地にあるべきだと説いている。まさにあらゆるものを不確定な”波”の状態としてみるのが、「菩薩たちの善き行ない」である。

 

P.68

・「このすべてのものは実在ではなく、あらわれたものでもなく、生じたものでもなく、空で動かないものとして常に現存している、と〔それは〕説かれた。このような(あり方)が賢者たちの正しい交際範囲といわれる。」

同じく、詩句の部分における、「菩薩たちの善き行ない」の説明の一つである。

・「このすべてのものは常に虚空と等しく、内実を欠き、動ずることなく、妄想を離れ、しかも常に現存している(と観察する)。このような(あり方)が賢者たちの(正しい)交差範囲といわれる。」

同じく、詩句の部分における、「菩薩たちの善き行ない」の説明の一つである。

 

P.69

・「『さらにまた、マンジュシリーよ、如来が完全な涅槃にはいったのちの時代、のちの時節、のちの五百年において、正しい教えが消滅しつつある(末法)とき、この法門を説き広めようと欲する菩薩大士は、安楽な境地にいる(住安楽行)。』」

「正しい教えが消滅しつつある(末法)とき」は、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』では「正しい教えの滅亡が進行しつつある時」となっており、多少ニュアンスが異なっている(同書 下 P.139)。この箇所を「末法」であると断定することは適切ではないように思う。

 

P.70

・「この法座に坐って、集まってきた謹聴する人々に対して、多くのさまざまな物語を話すがよい。比丘たちにも、比丘尼たちにも。

信男・信女、王、同じく王子たちにも、その賢者は常に親しみ深い態度で、さまざまな趣意をもつ魅力的な(物語)を話してやるがよい。

そのとき、彼らに質問されても、彼らに適した意味をいま一度説明してあげなさい。

しかも(彼らが)聞いて菩提を得るものとなるような仕方で、その意味をすべて説いてあげるがよい。」

「法座に集まったあらゆる人々に、平等に教えを施せ」というのであるが、薬草喩品の如来の”教えの雨”を思い起こさせる箇所である。また、「さまざまな物語を話してやれ」というのは、まさしく”菩薩の方便”である。菩薩は説法においても、”如来さながらの人のようにあれかし”ということなのであろう。

 

P.71

・「~賢明な人は『わたしもこれら衆生も、ともに仏陀となれかし。私が、この”正しい教え(の白蓮)”を世間において(人々の)幸福のために説き聞かせることは、わたしにとってすべての安楽をもたらす用具となる」と常に思いつづけるべきである。」

”自利利他”という仏教の基本的精神を簡潔にあらわしたような表現である。自分の菩薩行が、他の人の幸福に繋がるというのである。

 

P.72

・「『すべての如来に対して父という思いをいだき、すべての菩薩に対して師という思いをいだく。また、世間の十方にいる菩薩大士たちを、深い志願と尊敬心とをもってたえず敬礼する。さらに、教えを説くさいも、彼は教えを平等に愛するので、教えを減じもせず増しもせずに説く。また、彼はこの法門を説き明かすさいに、それが教えを愛するためであっても、だれかに対してことさらに好意をいだくことはない。』」

菩薩たる者、如来や他の菩薩たちへのリスペクトを忘れてはならないということである。わたしたちは教えの理解が進むと、得意になってつい他者への尊敬の念を忘れてしまいがちになる、肝に銘じておきたい言葉である。

 

P.74-75

・「『ああ。これらの衆生はまことに知恵劣るものである。彼らは如来の巧みな方便である深い意味を秘めて語られたことばを聞かず、知らず、さとらず、問わず、信ぜず、信順しない。さらに、これらの衆生はこの法門に悟入せず、さとりもしない。しかしながら、私はこの、この上ない正しい菩提をさとったうえで、人がどこにいようとも、そこで彼を神通力によって廻心させ、信じさせ、悟入させ、成熟させるであろう』」

”如来の慈悲”ならぬ、”菩薩の慈悲”の言葉と言えよう。「神通力によって廻心させ、信じさせ、悟入させ、成熟させる」とあるが、「神通力」とは、根気強く、さまざまな角度で、繰り返し説くこと以外にないのではないかと思う。

 

P.75-

・髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ)の譬え

法華七喩の一つ、あらゆる煩悩という魔に打ち勝った勇者(菩薩)にこそ、王(如来)のもとどりのなかのただ一つの宝珠(法華経)は恩賞として与えられるということであるが、儒学無学人記品の2,000人の弟子たちが如来となったときの名である「宝玉をもとどりのなかにもつ王(宝相)」(Ⅰ P.261)は、この話に由来しているのかもしれない。

 

P.80

・「刀も毒薬も、さらに棒きれも土くれも、いかなるときにも彼の身に加えられることはない。彼に罵言(ばげん)を浴びせるものは、その口が閉ざされたものとさえなろう。」

この章の「四種のあり方」を実践したものが受ける効果の一部。法師品の「土くれや棒あるいは槍、また非難や脅迫がふりかかる」(P.19)に対応した表現であろう。

 

P.81-82

・「(また、)彼は夢のなかで如来を見る。~

その世間の保護者は(彼の)志願を知って、彼に人間の牛王(ごおう)(仏陀)の位にいたるとの予言を与える。『良家の子よ、お前もまた、この世で、未来世において、この植えないめでたい知を獲得するであろう。』~

夢のなかでさえも、彼は王の位も、後宮も、同じく親族一門もすべて捨て、あらゆる愛欲を断って出家し、菩提の座のほうへ近づく。

(菩提)樹のその根もとにある獅子座に坐って、菩提を求める彼は、このようにして七日間すごしたあとで、如来たちの知を獲得するであろう。~」

「四種のあり方」を実践する程の者(菩薩)は、夢にまでも如来を見るという。その夢とは、如来に会い、授記を得て、自らも如来となるというものである。この章のなかでもっとも不思議な箇所であるが、眠っている間は、「わたし」という認識の主体は、3次元空間での位置を失い、浮遊し、あらゆる平行世界を垣間見ることができるということであろうか。そして、その無限の平行世界の、如来に出会い如来になるという流れをみることができるということかもしれない。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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