法華経の注釈集 常不軽菩薩品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)

 

P.164

・常に軽んぜられたという菩薩

 本章の現代語訳のタイトルであるが、『梵漢和対照・現代語訳 法華経(植木雅俊訳 岩波書店)』では、サンスクリット語の掛詞により、四つの解釈が内包されているとして、「常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩の章」と訳されている(同書 下 P.380参照)。

 ちなみに、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の「デクノボー」は、この常不軽(じょうふぎょう)菩薩がモデルだという。

 

・”大きな威力を得た(得大勢)”菩薩大士

「得大勢菩薩」は、観世音菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍をつとめる、大勢至菩薩の別名である(植木雅俊、『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.226-227参照)。

 

・「『~将来、このような法門を謗り、このような経典を受持する比丘・比丘尼、信男・信女たちを非難し、侮辱し、偽りで粗野なことばによって話しかけるものたちには、好ましくない結果が生じるであろう。それはことばでは言いあらわせないほどである。他方、将来このような経典を受持し、読誦し、教示し、理解し、他人のために詳しく説明するものたちには、私が先に(前章で)述べたような好ましい結果が生じるであろう。そして、眼、耳、鼻、舌、身、意(という六根)の完全な清浄性を得るであろう。

 同じような表現は、法師品にも見られる(P.13参照)。また、「(六根の)完全な清浄性を得る」とは、解脱して、無限の平行世界の存在について理解するようになる、すなわち、宇宙の真の姿を見るようになるということである。

 

P.164-165

・”恐ろしく響く音声の王(威音王)”と呼ばれる~如来

 この威音王如来は、具体的な人物としての如来というよりは、妙音菩薩品の「”雲の太鼓の音の王(雲雷王)”と呼ばれる~如来」(P.217)と同様に、偉大な音声の教えを説く如来という意味の、象徴的な如来を意味していると思われる。

 

P.165

・「『さて、得大勢よ、その正しいさとりを得た尊敬さるべき世尊の威音王如来は、かの大成世界において、神々、人間、アスラをふくむ世間の人々を前にして教えを説かれた。すなわち、声聞のたちのためには、四つの真理に結びついた教え、(すなわち)生、老、病、死、愁苦、悲嘆、苦悩、憂悩、惑乱を超えるための、涅槃を究極とする縁起の過程を説かれた。菩薩大士たちのためには、この上ない正しい菩提に関して、六種の完成に結びつき、究極的には如来の知見にいたるような教えを説かれた。』」

 ここで、威音王如来の教えについて説かれている。声聞と菩薩で教えの内容が違うのは、如来の方便により、それぞれの段階に応じた教えが説かれたということである。「四つの真理」とは、四聖諦のことで、「四つの真理に結びついた教え、~涅槃を究極とする縁起の過程」とは十二縁起のことである(Ⅰ P.215-216参照)。このような教えは、化城喩品において大通智勝如来も説いているとされている(Ⅰ P.214-216参照)。また、「六種の完成」とは六根清浄のことである。

 

P.165-166

・「『さらに、得大勢よ、かの大成世界において、その~威音王如来が完全な涅槃にはいられたのち、(正しい教えと)正しい教えに似た教えが消滅したとき、また別の~威音王如来が世間に出現された。~得大勢よ、このように順次に、二百万・コーティ・ナユタもの威音王と呼ばれる~如来がかの大成世界に出現された。』」

 ここでの「正しい教え」とは正法、「正しい教えに似た教え」とは像法、それらが消滅したときとは末法のことを指す。その末法に現れる”別の”威音王如来とは、前の威音王如来のもとで、その末法に転生して教えを広めることを誓った弟子のことであろう。

 ここでは、こうした”教えの相続”により、文明を流転させながら無限の仏陀が出現したと説いているのである。

 

P.166

・「『そこには、得大勢よ、(それらの如来)すべてに先行する(最初の)如来、すなわち威音王と呼ばれる~如来がおられ、その世尊が完全な涅槃にはいられたあとで、正しい教えが消滅し、正しい教えに似た教えも消滅しつつあり、かの(世尊の)教誡が思いあがった比丘たちによって攻撃されたとき、”常に軽んぜられた(常不軽)”という名の比丘である菩薩がいた。』」

 少し長い文章であるが、要するに、常不軽菩薩は、威音王如来の教えが廃れてしまった像法の末期にいたということである。

 

P.166-167

・「『『尊者がたよ、私はあなたがたを軽蔑いたしません。あなたがたは軽蔑されません。それはどうしてでしょうか。あなたがたはすべて、菩薩としての修行(菩薩道)を行ないなさい。そうすれば、将来、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるからであります』

 このようにして。得大勢よ、その菩薩大士は、比丘でありながら、講説もせず、読詠もしない。ただ、だれを見ても、たとえ遠くにいる人でも、すべて近づいて右のように告げるだけである。』」

 常不軽菩薩は、法華経を解説するでもなく、読経するでもなく、ただ上記のような言葉を投げかけるだけだったという。

 ここで、法華経の読者は、一つの疑問を持つかもしれない。それは、前章の法師功徳品や本章の冒頭で、”五種法師”の行ないの実践とその結果としての六根清浄が力説されていたにもかかわらず、なぜ、そのような修行を一切行なわない菩薩について説かれているのだろうか、ということである。”五種法師”の行を行なわない菩薩が登場するのでは、今までの話は何だったのか、ということにもなる。

 ただ、常不軽菩薩は、罵詈雑言に耐えながら、一貫して「あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行ないなさい」と言い続けている。ここに大きな意味がありそうだ。

 彼はなぜそのような行いを貫いたのだろうか。唯識論の大成者として名高いヴァスバンドゥ(世親)は、「すべての衆生に仏性が具わっていることを示現するため」であると述べており、後世の天台智顗もこの考え方を踏襲している(前掲 『法華経とは何か その思想と背景』、P.218-219参照)。「仏性」とは、一般的には、「仏となる可能性」や「仏の本性」であると理解されているが(同書 P.219参照)、筆者はこれを11次元的な”真我”、すなわち、”何もない真空”、あるいは、妙音菩薩が見た「多宝如来のご遺体全体」(P.216)であると理解している。

 常不軽菩薩は、過去世において、気が遠くなるほどの時間を費やして法華経と向き合ってこの境地を得たのであろうが、すべての衆生に仏性を見い出すことは、菩薩の得る”六根清浄”よりもはるかに高次の知であり、それを得ていた彼には、もはや”五種法師の行は必要なかったのかもしれない。

 さらに、すべての衆生に仏性が具わっているという確信が、汚辱に耐え続けながら菩薩行を勧め続けるという極めて過酷な難行を可能にしたのであるに違いないが、それは”仏の慈悲”に通じるものであり、キリスト者なら、これを”愛”と呼ぶであろう。

 

P.169

・「『得大勢よ、その菩薩大士は、そのとき、~だれにでも右のように告げるのである。(告げられたものは)ほとんどすべて、彼に対して腹を立て、悪意をいだき、不信感をいだき、非難し、侮辱する。

『どうしてこの比丘は聞かれもしないのに、軽蔑の心をもたないなどとわれわれに吹聴するのであろう。この上ない正しい菩提を得るであろうと、ほんとうでもなく、望んでもいない予言をわれわれに与えるなどとは、(われわれに)自身を軽蔑させるものである』と。』」

 常不軽菩薩から、「あなたがたを軽蔑しません」と告げられた者たちの反応である。ほとんどすべての者が、望みもしない”偽の授記”について吹聴されたとして、侮辱を受けたと感じ腹を立てる。

 しかし、なぜ、彼らは「(われわれに)自身を軽蔑させるものである」と腹を立てたのであろうか。それは、「(自分は真理を)体得した」(P.172)と思っていたからである。すなわち、彼らは、方便品で仏陀になるための真の教えを受け入れられず、その教えの会合から立ち去った5,000人の「(不要の)籾殻(もみがら)」(Ⅰ P.51)と同じような輩たちであり、「まだ得ていないものを得たと思い、まだ、理解していないものを理解したと思っている」(Ⅰ P.51)思いあがった者たちである。そのような者たちが、”この上ない正しいさとり”を目指せ、といわれ、自尊心を傷つけられて腹を立てたのである。

 

・土くれや棒きれを投げつける人々

 上記のような怒れる増上慢たちが「土くれや棒きれ」で常不軽菩薩を攻撃しようとしたのである。法師品と類似した表現が使われているところが興味深い。

 

P.168

・「『そして、その常不軽菩薩大士は、死期が近づいたとき、空中からの声により、この法門を聞いた。だれも説かないのに、空中からの声を聞いて、この法門を把握し、その(前章で述べた)ような、眼の清浄、耳の清浄、鼻の清浄、舌の清浄、身の清浄、意の清浄を獲得した。』」

 非常に謎に満ちた表現である。死期が近づいた常不軽菩薩は、空中で法華経が説かれるのを聞いて理解し、六根清浄を得たというが、これは過去世ですでに法華経を十分に理解しており、内なる記憶として秘めていたということかもしれない。そして、六根清浄を新たに得たというよりは、過去世の”五種法師”の行いにより、すでに得ていたものを取り戻したということのように思える。

 

・「『(これら六根の)清浄を獲得するやいなや、再びさらに二百万・コーティ・ナユタ年ものあいだ、自分の生命の生成するあり方を神通力により持続させ、この”正しい教えの白蓮”という法門を説き明かしたのである。』」

 このような「自分の生命の生成するあり方」を持続させる神通力を釈迦自身も使って、涅槃の三か月前から命を長らえていたという(P.283参照)。

 

・「『そして、かの思いあがった比丘・比丘尼、信男・信女たち~は、すべて彼の広大な神通力の威力、説得する雄弁力の威力、知恵力の威力を見て、教えを聞くために(彼に)従うものとなった。』」

 六根清浄を取り戻し、見違えるようになった常不軽菩薩の教えの力により、かつて彼を軽蔑していた人々が彼に従うようになったとあるが、この教えの力も、新たに得たというより本来持っていた力に目覚めたということであろう。

 ところで、なぜ、そのような大きな力を持ち合わせながら、前半生ではその力を使わずに、ただ、「菩薩行を行ないなさい」と言い続けたのだろうか。それは、上述したように、「すべての衆生に仏性が具わっていることを示現するため」であり、それを自身に試練として課して、威音王如来がいた大成世界に出生したのではないかと思う。

 

P.169

・「『さて、得大勢よ、その菩薩大士は、そこ(大成世界)から死んだあと、”月の音の王”という名前の、二千・コーティもの~如来たちを喜ばせ、すべてのばあいにこの法門を説き明かした。』」

 ここで、「二千・コーティもの~如来たち」とあるが、これは「”月の音の王”という名前の如来」の、無限の平行世界(三千世界)の分身たちを意味していると考えられる。

 ちなみに、この「”月の音の王”という名前の如来」は、漢訳では”日月燈明”如来となっており、伝統的に序品の日月燈明如来と同一視されていた(P.283-284参照)。

 

・「『さらに、彼は順次に、その同じ過去の善根によって、”太鼓の音の王”という名前の、二百万・コーティ・ナユタもの~如来たちを、順次に喜ばせ、~』」

 ここも同様に、無限の平行世界のすべての如来を喜ばせたということであろう。意見が分かれるところであるが、この如来と常不軽菩薩がともに無限回生まれ変わったとは読めないため、P.166と異なり、「順次に」という言葉に特段の意味はないと筆者は考えている。

 

・「『さらに、彼は、この同じ過去の善根によって、”雲の音の王”という名前の、二百万・コーティ・ナユタもの~如来たちを、順次に喜ばせ、~』」

 上記と同趣旨。ちなみに、上記の”太鼓の音の王”如来と、この”雲の音の王”如来を合わせると、”雲の太鼓の音の王”如来、すなわち、妙音菩薩品の雲雷王如来と同じような意味合いになる点が興味深い。

 

・「『そして、すべてのばあいに、その(前章で述べた)ような眼の完全な清浄性をそなえていた。耳、鼻、舌、身、そして意の完全な清浄性をそなえていた。』」

 上述したが、この常不軽菩薩の六根清浄は、「私はあなたがたを軽蔑しません」と言い続ける行で得たというよりも、その前にすでに得ていたのではないかと思う。だからこそ、全ての衆生に仏性を見出し、罵詈雑言に耐えながらそのようなことを言い続けることができたのではないだろうか。

 

P.170-171

・「『ところで、得大勢よ、そのときその場の、~』」

 ここで、釈迦は、この常不軽菩薩は自身の過去世であったことを、聞き手である得大勢菩薩に告げる。また、かつて彼に悪意を抱いた者たちは、会衆のうちの不退転の500人の菩薩、500人の比丘尼、および500人の信女たちの過去世であったことも告げる。このあたりは化城喩品の、過去世における菩薩と弟子たちの繋がりを彷彿とさせる(Ⅰ P.220-223参照)。

 

P.172

・「彼らの非難や侮辱に耐えるうちに、~」

 「非難や侮辱に耐える」ことは、六波羅蜜の忍辱(にんにく)行に他ならない。常不軽菩薩の行ないは、この忍辱行の実践であったともいえる。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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