法華経の注釈集 法師功徳品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)

 

P.145

・「『だれかある良家の子が、(将来)この法門を受持したり、読経したり、教示したり、書写したりするとしよう。その良家の息子あるいは娘は、八百の眼の徳性、千二百の耳の徳性、八百の鼻の徳性、千二百の舌の徳性を得るであろう、八百の身の徳性、千二百の意の徳性を得るであろう。これら幾百もの多くの徳性によって、その人の六種の感官(六根)の集まりは、清浄に、とりわけ清浄になるであろう。』」

 最初の一文は、漢訳(書き下し文)では、「この法華経を受持し、若しくは読み、若しくは誦し、若しくは解説(げせつ)し、若しくは書写せば、~」となっており、”五種法師(受持、読経、誦経(ずきょう)、解説、書写の5つの修行者のあり方)”について記載した箇所である。漢訳には、原文にない「読経」が加わっているが、これは翻訳者である鳩摩羅什の意訳であろう。同様の記載が法師品にも見られる(P.8参照)。

 ここで、「将来」とは、釈迦の入滅後を意味し、「良家の子」とは、釈迦より授記を受けて、彼の末法に転生した菩薩のことを意味する。

 また、「その良家の息子あるいは娘は、~」以降は、”六根清浄”についての記載である。「六根」は眼、耳、鼻、舌、身、意の5つの感覚器官(根)に”意根”を併せたものであるが、”六根清浄”という言葉は、日本の修験道において、山伏たちに広く唱えられてきた。これは俗説であるが、「どっこいしょ」という掛け声は、この”六根清浄”に由来しているという。

 「清浄」とは、俗世的な汚れから離れている、すなわち、解脱しているという状態を意味していると考えられる。

 

・「『このように、清浄な眼根、父母より授かった生来の肉眼によって、その人は三千大千世界の内外を、その山や森林とともに、下はアヴィーチ(阿鼻)大地獄にはじまり、上は存在界(有頂)にいたるまで、そのすべてを見るであろう。また、彼ら(衆生)の行為の結果を知るであろう』」

 本章では、法華経の修行者が得る様々な能力について説かれているが、それは文字通りの超人的な力を得るというよりは、「無限の平行宇宙の存在を理解し、そのすべてを見渡すことができる」ようになるということである(奥平亜美衣、小宮光二、『真訳 法華経』、廣済堂出版、P.183)。この「眼根」について得る能力も一種の比喩であるが、無限の平行宇宙を見るということで最もイメージしやすいのではないかと思う。

 また、仏教の修行法は、論理と思考によるヨガ(ジニャーナヨガ)であるが、法華経の”五種法師”のあり方を実践することは最高の修行をしていることになると小宮氏は語っている。

 ところで、如来寿量品の「良医病子の喩・自我偈」の注釈でもふれたが、この章での超人的な獲得能力は、一種の”努力目標”と理解したほうがよい。例えば、「アヴィーチ大地獄から有頂天まで見るであろう」は、「アヴィーチ大地獄から有頂天まで見えるように努力せよ」と読むということである(もちろん、そういう宇宙像を理解せよ、という例えであるが)。

 

・三千大千世界

 ”三千世界”の改まった言い方である。同義と考えてよい。つまり、ひとつの人格(主体)のすべての平行宇宙のことである。

 

P.146

・「いまだ彼には天眼はなく、また生じてもいないが、~」

 「天眼」は5種の神通のうちの一つである。薬草喩品(ⅠP.164)参照。天眼を身に付けるのは、如来となったときということであろう。

 

・「『さらにまた、常精進よ、かの良家の息子にせよ娘にせよ、この法門を説き明かし、他の人々に説き聞かせるものは、かの千二百の耳の徳性をそなえることになるだろう。三千大千世界において、アヴィーチ大地獄にはじまり、最高の存在界にいたるまで、内外に様々な音声が生じるであろう。』」

 法華経の修行者が得る耳の徳性についての記載である。これも、様々な音が存在する無数の平行世界の存在を理解するという一種の比喩である。

 

P.147

・「『常精進よ、かの菩薩大士は、このような耳根を得るのであるが、まだ、天耳を獲得したわけではないのである。』」

・「彼の耳根は清浄で汚れがないが、まだ生来のものにすぎない。」

 P.146の注釈と同趣旨。

 

P.149

・「『さらにまた、常精進よ、この法門を受持し、説明し、読詠し、書写するこの大菩薩の鼻根は、八百の徳性をそなえ清浄である。彼はその清浄な鼻根によって、三千大千世界の内外にあるさまざまな香り~をかぐ。』」

 これもまた、無限の平行世界の理解についての比喩である。日本語の用法として、”直感”という意味で”嗅覚”という言葉が使われるのを考えれば理解しやすいかもしれない。

 

P.151

・「『そして、彼は、かの正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちがどこにおられるかを知っている。』」

 如来に出会う前に”五種法師”の修行を行なえるような修行者は、過去生において授記を得ている場合が多いであろうが、そのような修行者は、その”嗅覚”により如来と出会うことができるということであろう。

 

P.155

・「まだ彼の鼻は天界のものではないが、それはかの汚れなき(無漏)天界の鼻に先行するものである。」

 P.146の注釈と同じように、「天界の鼻」を身に付けるのは如来となったときということであろう。

 

・「『さらにまた、常精進よ、かの良家の息子にせよ娘にせよ、この法門を受持し、教示し、説明し、書写するものは、かの千二百の舌の徳性をそなえた舌根を得るであろう。その人が、そのような舌根によっていかなり味を味わうにせよ、いかなる舌根にのせるにせよ、そのすべて(の味)は天界のすぐれた風味を出すであろう。』」

 これもまた、無限の平行世界の理解についての比喩である。

 

・「『また、どんな不快な味も味わわないというように、彼は味わうであろう。たとえ不快な味であっても、彼の舌根にのせられると、天界の風味を出すであろう。』」

 かなり独特の表現であるが、これは何を味わったとしても「それを宇宙の理(ことわり)と一致させることができる」(前掲『真訳 法華経』、P.183)ということであろう。

 

P.155-157

・「『そして、彼が集会のまんなかで述べる教えによって、衆生たちは諸感官を喜ばせ、満足し、歓喜を生じるであろう。』」

・「『彼が教えを説けば、その甘く、美しく、心地よい声を聞いて、神々さえも、(彼に)まみえ、敬礼し、仕え、(その)教えを聞くために、(彼に)近づくべきであろうと考えるであろう。~それほどうまく、かの説法者は、あるがままに、如来が説かれたとおりに、教えを説くであろう。』」

 この「舌根」については、感覚以外にも説法の力が身に付くと説かれている。”五種法師”により、宇宙の真の姿を理解するのだから、説法に特異的な説得力が付くという意味では当然といえるかもしれない。

 

P.158-159

・「『さらにまた、常精進よ、この法門を受持したり、読誦したり、説明したり、教示したり、あるいは書写したりする、かの菩薩大士は、八百の身(根)の徳性を得るであろう。彼の身は清浄であり、その皮膚の色は瑠璃のように清浄であり、衆生たちの眼を喜ばせるであろう。彼(菩薩)はその完全に清浄な身体の上に、三千大千世界のすべてを見るであろう。』」

P.159-160

・「鏡面に映像が見られるように彼の身にはこの世界が見られよう。彼はみずから(これを)見るが、他の衆生たちが(見ることは)ない。彼の身の完全な清浄性は、このようなものである。」

 これらもまた、無限の平行世界の理解についての比喩である。”身体”といとイメージしにくいのだが、自己の鏡面のような身に映る像を見る「眼根」に近いものと考えるとイメージしやすいかもしれない。

 妙音菩薩が清らかな身体を得ているのも(P.211参照)、このような「身根」を得てということであろう。

 

P.160

・「『さらにまた、常精進よ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を受持し、教示し、説明し、書写し、読誦する、その菩薩大士の意根は、かの千二百の心のはたらきの徳性をそなえ、完全に清浄なものとなるであろう。彼がその清浄な意根で、たとえ一詩頌でも聞くなら、その(詩頌のもつ)多くの意味を知るであろう。』」

 如来が入滅した後に、「この法門」(法華経)を受持する者とは、その如来から授記を得て転生する修行者のことを指す。そのような修行者は、次第に法華経の真髄を理解するようになるが、多くの他の経典も、”一を聞いて十を知る”ように容易に理解できるようになるということであろう。

 

P.161

・「また、いかなる教えを説いても、彼はそれを記憶し、忘れることがないであろう。通俗的な世間の事柄にせよ、呪文にせよ、何が語られても、そのすべてを法の道理と一致させるであろう。~ありとあらゆる衆生たちの心の動きや活動を知るであろう。~まだ聖者の知を得ていないのに、彼の意根はこのように完全に清浄であろう。あれこれの教えと(その)解釈を熟慮したのち、教えを説くが、すべて正しいことを彼は説くであろう。すべて如来によって語られたこと、すべてのいにしえの勝利者の経典に説かれたことを彼は語るであろう。』」

 このような超人的な能力が身に付くかどうかは別として、法華経と向き合うことで、意識が進化するのは間違いないであろう。これらの能力の獲得は、その意識の進化を比喩的に述べたものであると考えられる。

 ちなみに「聖者」とは如来のことを指す。「如来の知」はまだ得ることができないが、それに準ずるものは得ることができるということである。

 

P.162

・「すべての存在のあいだの関係性や結びつき方」

 因縁あるいは因果律のことである。

 

・「彼はいまだ執着のない知を得てはいないが、これ(すなわち彼の意根)はそれに先行するものである。」

 これも、執着のない「如来の知」はまだ得ることができないが、それに準ずるものは得ることができるということである。

 

・「善逝のこの経典を受持するものは、師の境地に立ち、あらゆる衆生に教えを説き、幾コーティもの解釈に熟達するものである。」

 さりげない一文であるが、これは法華経の修行者のあるべき姿を示したものであるといえる。「師の境地」とは、宇宙の真の姿を理解すること、「あらゆる衆生に教えを説き、幾コーティもの解釈に熟達する」とは、説法により、自らの理解に磨きをかけることと言えよう。これこそが、「如来の知」にいたる道のりに他ならない。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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