法華経の注釈集 如来神力品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)

 

P.174

・「そのとき、大地の裂け目から出てきた、かの(小)千世界の原子の塵(の数)に等しい幾百・コーティ・ナユタもの菩薩たちは、すべて世尊のほうに向かって合掌して、次のように世尊に申し上げた。

『世尊よ、如来が完全な涅槃にはいられたあと、すべての仏陀の国土において、世尊のいかなる仏陀の国土にせよ、どこで世尊が完全な涅槃にはいられようと、私たちはそこでこの法門を説き明かすでありましょう。世尊よ、このように偉大な法門を、私たちは受持したり、読誦したり、教示したり、説明したり、書写したりするために、求めるものであります』」

「大地の裂け目から出てきた~菩薩たち」とは、従地涌出品の”地涌の菩薩”たちのことである。また、ここでの「すべての仏陀の国土」とは、釈迦の授記から始まる全創造宇宙のことである。そのどの宇宙に生まれても、必ず法華経を広めると、地涌の菩薩たちがまさに誓いを立てているのである。

 また、見方を変えれば、そのどの世界に生まれようとも、その世界の過去に釈迦の授記の系譜の如来がおり、法華経を遺しているということも意味している。

 

P.174-175

・「そのとき、マンジュシリー(文殊師利)をはじめとする、このサハー世界に住む幾百・千・コーティ・ナユタもの多くの菩薩たちや、比丘・比丘尼、信男・信女、神々、~人間や人間以外のものたち、またガンガー河の砂(の数)にも比すべき多くの菩薩大士たちが、次のように世尊に申し上げた。

「世尊よ、私たちもまた、如来が完全な涅槃にはいられたあと、この法門を説き明かすでありましょう。世尊よ、眼に見えぬ身体で空中に立って、声を聞かせるでありましょう」

「ガンガー河の砂(の数)にも比すべき多くの菩薩大士たち」とは、見宝塔品で登場した、他の世界からやってきた如来の従者である菩薩たちのことであると考えられる。

 ここでは、法華経の前半で次々と授記を受けた比丘・比丘尼たちも含めた、教えの会合の会衆たちも伝教の誓いを立てている。ここで、教えを広めよという命令、すなわち、授記に対して弟子たちが誓願したことにより、教えの承継が完成したといえる。教えを受け継いだ弟子たちは、この後、さまざまな世界を自らの内なる”ビッグバン”により創造し、そこで教えを広げることになる。

「眼に見えぬ身体で空中に立って、声を聞かせる」という記述が何を意味しているかよくわからないが、前章(常不軽菩薩品)の「だれも説かないのに、空中からの声を聞いて」(P.168)という記述と関係しているように思える。あらゆる衆生の意志が、眼に見えず、形にならない、全存在世界の力となって教えを伝え広げるという比喩であろうか。

 

P.175

・「そのとき、世尊のシャーキア・ムニ如来と、~多宝如来とは、ストゥパの中央にある獅子座に坐っておられた。どちらも微笑を浮かべ、開いた口のなかから舌根(広長舌)を出された。」

「舌根(広長舌)を出された」とは、簡単に言えば、法華経を説いたということ。なお、『梵漢和対照・現代語訳 法華経(植木雅俊訳 岩波書店)』では、「舌の感覚器官(舌根(ぜっこん))」となっている(同書 下 P.389参照)。

 

P.175-176

・「そして、その舌根により、ブラフマー神の世界にまで達せられ、その舌根からは幾百・千・コーティ・ナユタもの多数の光明が放たれた。さらに、それらの光明の一筋一筋の光線から、幾百・千・コーティ・ナユタもの多くの菩薩たちがあらわれた。~そして、その菩薩たちは、四方八方にある幾百・千もの世界に散らばって、四方八方のあらゆる方角において、空中に立って教えを説いた。」

「その舌根からは~多数の光明が放たれた」とは、法華経が広まるということ。「光明」とは叡智の光の比喩であろうか。また、「それらの光明の一筋一筋の光線から、~多くの菩薩たちがあらわれた」とは、法華経の教えを受持(理解)した菩薩たちが、無数に現れるということ。そのような菩薩たちが四方八方のあらゆる世界で教えを広めたというのである。

 

P.176

・「~幾百・千・コーティ・ナユタもの他の世界からやってきて、宝樹の根もとにある獅子座に坐られた、かの正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちは、すべて舌根により神通力の奇蹟を行なわれたのである。」

「他の世界」からやってきた如来たちとは、見宝塔品から登場している、釈迦の授記にルーツを持つ”無限の未来仏”たちのことである。この未来仏たちがあらゆる世界で法華経を説いているということである。

 

・「~かの正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちは、その舌根をもとに収めて、一刹那、一瞬間、一時刻に、すべて同時に、獅子のような大きな咳払いの音をたて、また一時に、指はじき(弾指)の音をたてられた。」

 小宮氏によれば、「すべての如来の教えはひとつであって、それは本物である」ということ(奥平亜美衣、小宮光二、『真訳 法華経』、廣済堂出版、P.196)。あらゆる如来の世界で、過去・現在・未来という時系列とは関係なく、如来たちの物語が同時、かつ、並列的に存在するということであろう。

 ちなみに、「一時に」は、前掲の『梵漢和対照・現代語訳 法華経』では、「一つ」となっている(同書 P.389)。

 

・「そして、その大きな咳払いの音と大きな指はじきの音とによって、十方の世界にある幾百・千・コーティ・ナユタものありとあらゆる仏陀の国土は、震え、振動し、震え愛、動き、激動し、動き合い、揺れ、動揺し、揺れ合った。」

 小宮氏によれば、「無限の始まりと無限の完成が同時に起こっているということ」である(前掲 『真訳 法華経』 P.196)。

 

・「さらに、それらすべての仏陀の国土にいるありとあらゆる衆生たち~も、仏陀の威神力のおかげで、すべてそこにいながらにして、このサハー世界を次のように見た。」

 無限の仏国土にいる「ありとあらゆる衆生たち」が如来たちの神通力により、釈迦や多宝如来がいるサハー世界を見ることができたということ。これらの世界と釈迦のサハー世界が融通無碍に繋がっているということを表している。

 見宝塔品で釈迦が眉間から光明を放ち、無限の仏国土を認識するが(P.26参照)、本章では逆に、無限の仏国土の側から釈迦のいるサハー世界を認識したということになる。

 

P.177

・「『友よ、量り知れず、数えきれない幾百・千・コーティ・ナユタもの世界を越えて、(その向こうに)サハー世界と呼ばれる世界があり、そこに、シャーキア・ムニという名の~如来がおられる。そのかたはいま、すべての如来が支持する~”正しい教えの白蓮”という法門を、菩薩大士たちのために説き明かしておられる。君たちはその(法門)を、深い願いをこめて随喜しなさい。そして、~シャーキア・ムニ如来と、~多宝如来とを敬礼しなさい』」

 小宮氏によれば、ここで「友よ」と声を発したのは、「別の世界から法華経を通じてこの光景を見ているあなた」である(前掲 『真訳 法華経』 P.197)。「あなたが、この法華経を広めることは素晴らしいことである、と菩薩たちに語っている」のである(同 P.197)。

 私見となるが、ここで小宮氏のいう「あなた」について少し解説したい。法華経の読者である「あなた」も、菩薩として何度も生まれ変わって修行を重ねれば、やがて未来仏となり、11次元の入滅したすべての如来たちの一人となる。別の言い方をすれば、「あなた」は存在の源そのものとなる(正確にいえば、存在の源が作り出す無数の分身の一つであったことを思い出す)。「あなた」が存在の源そのものであるとすれば、そのあらゆる分身たちは「あなた」の一部であるといえる。「友よ」と声を発したのは、その「あなた」の分身である法華経を受持する菩薩の一人である。

 

P.177-178

・「そのとき、そのあらゆる衆生たちは、このような空中からの声を聞いて、そこにいながらにして『~世尊のシャーキア・ムニ如来を敬礼いたします』ということばを、合掌して言った。さらに、世尊のシャーキア・ムニ(如来)と多宝如来とを供養し、この”正しい教えの白蓮”という法門を(供養する)ためにさまざまな花、薫香、香水、~を、~投げかけた、そして、投げかけられた、その花、薫香、香水、~は、このサハー世界において、および(そのサハー世界と融通無碍に)一体となっているような他の百・千・コーティ・ナユタもの世界もふくめて、そこに坐っておられるところのすべての如来たちに対して、その頭上の空中で、一つの大きな花の幔幕を(つくって)あまねく張りめぐらしたのであった。」

 上記の「さらに、それらすべての仏陀の国土にいる~」の注釈と同様に、ここでは、あらゆる世界と釈迦のいる法華経の中の「サハー世界」とが、融通無碍に繋がっているということが表現されている。

 

P.178-179

・「『良家の子らよ、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちは、考えも及ばぬ威力をもっておられる。良家の子らよ、この法門を委嘱するために、多くの幾百・千・コーティ・ナユタ劫ものあいだ、私が種々の教えなどにより、(この法門の)多くの利益を述べるとしよう。しかし、この法門について(どれだけその功徳を)述べても、私が功徳の果てに達することはないであろう。』」

「考えも及ばぬ威力」を秘めた法華経の教えを永遠に誓い間説き広めたとしても、説き広め尽くすことはできないということ。

 

P.179

・「『だから、良家の子らよ、お前たちは、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあと、この法門を恭敬して受持し、教示し、書写し、読誦し、説明し、修習し、供養すべきである。』」

 釈迦は、自らの入滅後に、この法華経を授持したり、書写したり、読誦したりせよ、と弟子たちに言っているのであるが、同時に、ご利益宗教的な呪文にするな、と言外で命じているともいえる。

 

P.179

・「『さらに、良家の子らよ、地上のある場所で、この法門が読誦されたり、説明されたり、教示されたり、書写されたり、熟考されたり、叙述されたり、読詠されたり、書物にされたりするとしよう。林園にせよ、精舎にせよ、家にせよ、森にせよ、町にせよ、樹の根もとにせよ、高殿にせよ、房室にせよ、洞窟にせよ、地上のその場所には、如来のための塔が建てられるべきだからである。それはなぜかといえば、地上のその場所は、すべての如来たちの菩提の座とみなされるべきであり、地上のその場所で、すべての~如来たちが、この上ない正しい菩提をさとられたのである、と知られるべきだからである。また、地上のその場所で、すべての如来たちが教えの輪を転じ、地上のその場所で、すべての如来たちが完全な涅槃にはいられた、と知られるべきだからである』」

 ここでの「如来のための塔」とは、見宝塔品の多宝塔、すなわち、11次元的な”何もない真空”のこと。この箇所は、見宝塔品の以下の文の詳細な言い換えとなっている。

「十方のすべての世界にある仏陀の国土において、この”正しい教えの白蓮”という法門が説き明かされるときには、そのどの(仏陀の国土)にも、私(多宝如来)のストゥパ、この私の全身を祀るストゥパがあらわれてくるであろう。(また、)それぞれの仏陀・世尊がこの”正しい教えの白蓮”という法門を説いているとき、集会の真上の空中に(そのストゥパ)がとどまるであろう。そして、~この私の全身を祀るストゥパが賞賛のことばを発するであろう」(P.24~25)

 ちなみに、この箇所は、道元禅師が死に臨んで病床で口ずさんでいた部分であるという。もしかしたら、彼はこの一節の重要性に気付いていたのかもしれない。

 

・法本来のすがた

 如来たちの説く真理、全存在世界の法則性のことであろうか。

 

P.180

・「私(シャーキア・ムニ如来)と、このすべての世間の指導者たちと、このすでに涅槃に入っておられる世間の指導者(多宝如来)とを、彼(『法華経』の受持者)は見る。また、この多くの菩薩たちのすべてとを、四衆たちとを見る。」

 これまでの要約のような箇所であるが、法華経を通して読者は、釈迦も、すべての未来仏も、多宝如来も、菩薩やその他の会衆も、全て見ることが出来るというのである。

 

P.181

・「この経典を受持するものは、未来や過去の仏陀たちと、いま十方におられる(仏陀たちの)すべてを見て、(彼らを)よく供養するであろう。~

指導者たちが、深い意味を秘めて語られた諸経典のあいだの関係を、彼は理解する。指導者(である私)が涅槃にはいったあとでも、彼は諸経典の真実の意味を知る。」

「この経典を~すべてを見て」の部分は上記と同趣旨。「諸経典の真実の意味を知る」とは、無限の始まりと完成、すなわち法華経の真髄を知ることである。 

 

・「彼は月に喩えられ、太陽と等しく、光り輝くものである。彼は地上を歩きまわって、あちこちで多くの菩薩たちを励ますものである。」

 この法華経の受持者の例えは、観世音菩薩普門品の観世音菩薩のあり方に類似している(P.230~235参照)。おそらく、法華経の受持者は、存在世界の真の姿を見るための”観自在力”を獲得するということであろう。

 

・「したがって、賢明なる菩薩たちは、この世におけるこのような利益を聞いて、私が涅槃にはいったあと、(この)経典を受持するであろう。彼らが菩提を得ることは疑いないであろう。」

 この箇所の「(この)経典を受持するであろう」は、「受持せよ」という意味が込められているように思える。そうすれば「菩提を得ることは疑いない」ということであろう。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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