法華経の注釈集 信解品

法華経の注釈集 信解品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)

 

P.124

・尊者スブーティ(須菩提(しゅぼだい))

釈迦の十大弟子のうちの一人。解脱第一。金剛般若経においては、釈迦へ問いかける役として登場している。

 

・尊者マハー・カーティヤーヤナ(大迦旃延(だいかせんねん))

釈迦の十大弟子のうちの一人。論議第一。

 

・尊者マハー・カーシャパ(大迦葉(だいかしょう))

釈迦の十大弟子のうちの一人。上行第一。釈迦の入滅後、同じく釈迦の十大弟子のうちの一人のアーナンダと共に第一回仏典結集を主宰した。

 

・尊者マハー・マウドガリヤーヤナ(大目犍連(だいもっけんれん))

釈迦の十大弟子のうちの一人。神通第一。同じく釈迦の十大弟子のうちの一人のシャーリプトラと共に、外道(不可知論者の一派)の教えから転向し、釈迦に帰依したという過去を持つ。

 

P.125

・「それゆえ、私たちは、世尊よ、世尊が法をお説きになったとき、『すべてのものは実体がなく(空)、形相がなく(無相)、欲求の対象でもない(無願)』ということは明らかに知りましたけれども、これらの仏陀の特性についても、~私たちはそれらを得たいという欲を起こしませんでした。それはなぜかと申せば、世尊よ、私たちはこの三界から逃れ出て涅槃を得たと思っており、また、老齢により耄碌(もうろく)しているからです。」

上記四人の弟子の言葉。「三界」とは、欲界、色界、無色界のことを指すが、小宮氏は欲界を存在構造の3~7次元(輪廻転生の世界)、色界を8~10次元(仏法の法則性の世界)、無色界を11次元(純粋な認識作用(無生法認))と解説しており、この理解だと阿羅漢のさとりを得たにすぎない彼らが「三界から逃れ出」ることはない。

したがって、ここでの「三界」は、阿羅漢が離脱したと考えた方便としての三界ととらえるべきだろう。

なお、ここでの「それらを得たいという欲」は、物質的な欲望とは異なることを注記しておきたい。

 

・「それゆえ、世尊よ、私たちは、他の菩薩たちに対して、最高のさとりについて教えたり、戒めたりもしたのでありますが、しかも世尊よ、私たち(みずから)はそのこと(すなわち最高の菩提)について、一度もそれを欲する心を起こさなかったのです。」

同じく、上記四人の弟子の言葉。彼らが譬喩品のシャーリプトラと同じように、小乗仏教の声聞たちのモデルとして描かれているとすると、小乗教徒の彼らが、大乗教徒の「他の菩薩たちに対して」教えるということは、通常では考えにくい。

この点について、仏教研究家の植木雅俊氏は、小乗教団の内部に、ひそかに菩薩道を実践する者たちがいたと推測しており、そのような者たちを指導するということなら辻褄が合うと述べている(植木雅俊著 『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.58~)。

また、これは私見になるが、法華経自体が未来の菩薩たちに向けて説かれた経典であることを考えると、「他の菩薩たち」は、四人の弟子の物語が記された様々な仏典を読む未来の菩薩たちと見ることができるのではなかろうか。

 

P.126~章末

・長者窮子の譬

いわゆる、「法華七喩」の一つ。新約聖書に類似した例え話が説かれていることが興味深い(放蕩息子の譬(ルカ書 15・11-38参照)。イエス・キリストが十代の後半にインドに渡り、仏教徒として修行していたという話が現在のインドでもまことしやかに語られているらしいが、もしかしたら、イエスの念頭には、この「長者窮子の譬」があったのかもしれない。

 

P.134

・「劣等なものに信をおく傾向(信解)」

ここでは、この章のタイトルでもある「信への志向」が、「劣等なものに対する”信への志向”」とよりくわしく言い換えられている。

 

・「それゆえ、世尊は、芥溜(こえだめ)にも似た、より下等な多くの教えを考察せよ、と私たちに言われたのです。」

かつて、スブーティら四人の弟子たちは、「劣等なものに信をおく傾向(信解)」を持つものであったがゆえ、まずは、方便として、釈迦は法華経よりも劣った教えを学ばせたということ。

 

・「(ところが)そのような私どもが、世尊よ、偉大な菩薩たちに対して、如来の知見について高尚な説法を行ない、如来の知をあらわにし、説き示し、説き明かしたりしますが、(それにもかかわらず、)私ども(みずから)は、世尊よ、それ(すなわち如来の知)について(それを得たいという)欲望はないのです。それはなぜかといえば、巧みな方便によって、如来は、私どもにある(劣等なものを願う)性向をよくごぞんじであり、(したがって小乗を私どもに説かれたのであり、)そしてまた私どもは、われわれは世尊の真の子である、とこのように世尊がお説きになることを知りもせず、さとりもしないからです。そして、世尊は、(われわれが)如来の知の相続者であることを私どもに思い出させ(ようとせ)られます。」

上述したように、スブーティら四人の弟子たちは、劣った教えを信じ、満足してしまう性質があるが、実は、彼らもまた、「如来の知の相続者」に他ならず、釈迦はそのことを思い出させるために大乗の教えを説き始めたということ。

 

P.136

「もし世尊が、私どもに性向として(上等な大乗を)願う力があると認められたなら、世尊はまた、私どもに菩薩という名称を与え(大乗の法を説いてくださ)るでしょう。世尊はまた、私どもに、両様の振舞いをさせられます。(すなわち)一面では(かつて)菩薩たちの面前で、(われわれを)劣等なものを願い志向するものと仰せられたのであり、他面ではそれらを広大な仏陀の菩提に向かうように励まされたのです。しかるにいまや、(この経中において)世尊は、私どもが(菩薩と同じく大乗を)願い信ずる力のあるものであることを認められて、(一乗の法のみという)このことをお説きになったのであります。」

方便品において、シャーリプトラの三度の懇願に応じて、釈迦が「仏陀の知」を説き始めたとき、五千人の増上慢の会衆たちがその場から立ち去った。

他方、シャーリプトラやスブーティらは、如来への帰依心により、その場にとどまり、釈迦の「開三顕一」の教えを聞き続けた。

それは、これまでの「両様の振舞い」(方便)による指導により、菩薩と同じ大乗の教えを願い信ずる力があるものと、釈迦がそのように認めたからだ、というのである。

 

P.142-143

・「ちょうど、これと同じように、指導者(仏陀)は、私たちが低級なもののみを願っていることを知っておられるから、『お前たちは仏陀になるだろう』とか、『お前たち声聞はまことに私の息子である』とは仰せにならなかった。

世間の保護者(仏陀)は私たちに、(菩薩たちに)教えるように求められる。~

そこで、善逝は、私たちを偉大な力のある大ぜいの菩薩たちのところに遣わされ、私たちは、~(彼らに)最高の道を説いた。

勝利者の息子たちは、私どもの言うことを聞いて、菩提のための、最高の善き道を修行する。そして、その瞬間に(仏陀から)『お前たちはこの世において仏陀となるであろう』と予言されるのである。

この教えの蔵を守りながら、また勝利者の息子たちにそれを説き明かしながら、私たちは如実の人(仏陀)のために、以上のような仕事をするのである。~

~一方では勝利者の知を(菩薩たちに)説き明かすのに、(自分では)勝利者の知を求めようともしない。」

仏陀は、声聞である弟子たちが阿羅漢のさとりという劣ったもののみを願っているうちは、彼らに授記を与えることはないといっている。

一方で、声聞の教えを受けた菩薩たちは、「最高の善き道」を修行し、すぐさま仏陀に授記を与えられるという。

この、授記を受ける資格がない者が授記を受ける資格があるものを育て上げるという皮肉的な状況においても、彼らは「仏陀の知」を求めようとはしない。それはなぜか?

それは、「おのおのみずからの滅を(究極的なものと)考え(それに満足す)る」(P.143)という、仮の涅槃を得たことで良しとし、それ以上を求めることがなかったからである。それが「劣等なものに信をおく傾向(信解)」だというのである。

それに対し、如来は、「長者の父」のように、方便により正しい菩提へ向かうよう、そのような声聞たちを根気強く訓練しながら、適切な時機を待つとこの後の文章で説かれてる。

ところで、スブーティら四人の弟子たちは、彼らが語っているように、心の底から阿羅漢のさとりで満足し、「仏陀の知」に一切関心が無かったのだろうか?

筆者はそうではないと考える。

本当に心の底から阿羅漢のさとりで満足していたならば、釈迦が「仏陀の知」を説き明かしはじめたとき、方便品の五千人の増上慢の会衆とともに、教えの会合の場から去っていたはずである。やはり、声聞という「仏陀の知」が得られない立場に満足していなかったのだろうと思う。この四人はそのようなキャラクターとして描かれているのであろう。「仏陀の知」が得られ、仏となる道が開かれることについての喜びのなかで、上記の「長者窮子の譬」がこの四人によって語られたと考えると、この章をより深く理解できるのではないだろうか。

 

P.145

・「保護者よ、今日私どもは(真の)”声聞”として、一つには最高の菩提を(人々に)”聞”かせ、一つには菩提という”声”を明示しよう。そのことによって、私たちは、巍然(ぎぜん)たる態度の”声聞”であるのである。

保護者よ、私どもはいま、(真の)”阿羅漢(アルハンタ)”となって、神々や魔やブラフマー神をもふくめた世間から、すなわちあらゆる生きとし生けるものたちから、親しく供養を受ける”資格(アルハ)”があるのである。」

『梵漢和対照・現代語訳 法華経 上』(岩波書店)では、前半(第55句)は次のとおり訳されている。

「保護者よ、今、私たちは〔仏の声(教え)を聞くだけでなく、仏の声を聞かせる人として〕真の声聞であり、最高の覚り〔についての声〕を〔人々に〕聞かせるでありましょう。また、私たちは覚りの言葉を宣言しましょう。それによって、私たちは恐るべき決意に立った声聞であります。」(同 P.317)

ここでの「声聞」には、「①『声を聞く人である』、②『声を聞かせる人である』、③『真実の声聞』」という三つの意味があるという(同 P.337)。

上記に中公版の訳では、①の「声を聞く人である」という意味はあえて訳していないようだ。また、「声聞」を「声」と「聞」に分けている点は漢文的な発想であり、サンスクリットの原典にはそのような意図はないようだ。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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