(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.105
・野干(きつね)
「野干(やかん)」とは、日本においてはキツネの異名だが、実際にはジャッカルのこと。
P.110
・『それゆえ、私は、いま安楽(ニルヴァーナ)に達することができたのである』
植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経 上』によれば、この箇所は、『~それ故に、私は今、〔息子たちと〕一緒に安らぎ(涅槃)に達したものである』とある(同 P.221)。上記中公文庫訳では「一緒に」という意味が欠落している。
ここまで、如来と阿羅漢の涅槃は異なるものであると力説されているが、ここで「一緒に」としているのには違和感がある。しかし、植木訳は岩波版や中公文庫版の誤訳を指摘しながらサンスクリット語原典を忠実に翻訳したものであり、おそらく正確に訳されていると考えられるので、ここは「父と子供たちは異なる涅槃にはいるが安心感は共有した」とひとまず理解しておきたい。
P.113
・「そこには、もろもろの力や禅定や解脱があり、また幾百・コーティもの多くの三昧がある。この車(すなわち仏陀の乗り物)は、このように最もすぐれたものであり、これに乗って仏陀の息子たち(菩薩)はいつも楽しむのである。」
※「そこには」:仏陀の乗り物には
※「この車」:(玩具ではない本当の)牛の車(大白牛車(だいびゃくごしゃ))
これは、P.100の「仏陀の知という量り知れない不思議な楽しさ」の具体的な記載である。
P.114
・「およそだれか菩薩なるものがここにいるとすれば、それは仏陀としての私の導きに耳を傾けるもので、そのすべてが(菩薩なの)である。」
方便品の詩句(139)の「私にとって、この世に声聞〔と言われる人〕はだれ一人として存在しない」(植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経 上』P.131)と同趣旨。
声聞乗というものは如来の方便にすぎず、真実の意味においては、菩薩行の完成により真の涅槃に至る仏乗のみが存在し、声聞に属するものたちも菩薩であることをうたったもの。
P.115
・「シャーリプトラよ、(そのばあい)彼らが何から解脱したのであるか。真実ならざるものへの執着から解脱したのである。したがって、彼らは、あらゆる意味において完全に解脱したのではなく、(それを)指導者はここ(すなわち詩頌〔九八〕)で、「彼らはまだ(真の)涅槃を得たものではない」と言ったのである。
この最高のすぐれた(大乗の)菩提をまだ得ていないかぎり、彼が解脱しているとは私が説かないのは何ゆえであろうか。(その理由は)これが私の願いであって(事実、)私は(あらゆる人々を)安楽にするために法王としてこの世に生れ出たのであるから。」
方便品において「如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために~如来は世間にあらわれるのである」と説かれているが(P.52~54参照)、ここでは表現を変えて同じ趣旨が再び説かれている。
P.116
・「お前が説いたときに、だれかある人が、「私は(この教えに)随喜します」ということばを口にし、またこの経典(『法華経』)を頭に抱くならば、お前は彼こそ不退転の人であると思うがよい。
この経を信ずるようになる人は、過去世において如来たちに会って供養したものであり、また、このように(りっぱな)この教えをかつて聞いたことのあるものである。
私が説いたこの教えを信ずるほどのものは、私にもお前にも(過去世において)如来たちに会ったのであり、私はこの比丘僧団のすべてにも、またこれらの菩薩たちのすべてにもあったことがあるのである。」
ここでは、法華経を信ずるようになる人との過去世での繋がりについて語られている。化城喩品(P.222~223)も参照のこと。
・「彼らもまた私への信仰によって(この経に)近づくのであって、(信ずる以外に)各自に知があるわけではない。」
法華経の理解には、如来への帰依が大前提となるということ。
P.120
・「(このように三毒煩悩に打ちひしがれた)彼は、(いわば)畜生の生まれをいつも楽しんでいるのである。」
六道輪廻について参考になる一文である。
「六道」の天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の各世界は、私たちが住むこの世界とは別に存在するのではなく、また、必ずしも人間以外の生物になることを意味してるのではない。すなわち、転生した生における心の在り方を表現したものである。例えば、「畜生」とは、自分のことしか考えないような利己的な心の在り方のことを意味する。
3次元世界に生を受けるということは、言い換えれば私たちが自己の意識の中に3次元空間を作り出し、その中に観測点(現象学的な認識の「場」)を持つということである(これを小宮氏は「ビッグバンを起こす」と表現している)。
その私たちが作り出した3次元世界の意味付けは、前世のカルマに汚染されたものになる。その汚染の態様は、いわばカルマの積み重ねにより、ある意味で「自ら選んだもの」といえる。
ここでの「いつも楽しんでいる」というのは、自ら無意識のうちにそのような生まれをいつも選んでいるということである。
P.121
・『お前はこのような経典を、愚かな人々の前ではけっして説いてはならない』
愚かな人々の前でこの法華経を説けば、彼らからの誹りは免れず、彼らはその誹謗したことによる罪により悪しき境遇に生まれることになる。それゆえ、むしろ説くことを避けるべきだ、ということである。
・「しかしながら、この世において賢明であり、多くのことを学び、思慮深くあり、学者であり、知識をそなえ、さらに最高のすぐれた菩提に向かって進んでいる、そのような人々に対して、お前はこの最高の真理について語れ。」
一方、ここからP.123の章末まで、具体的な人物例を挙げながら、善き人々には大いに法華経を語れと説いている。
法華経を語り、多くの人たちに如来との縁を持たせることこそが菩薩行であるといえる。
P.122
・如来の遺骨
ここでの「遺骨」は、見宝塔品の「遺骨」と同じである。
p.120 の「その私たちが作り出した3次元世界の意味付けは・・」の解説、興味深かったです!
ほんと、解脱しないと、またそれまでの傾向の繰り返しで 轍を行くようなことになる可能性が高いでしょうね。
有り難うございました!