(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.59
・「(このようにして)私の集会は確立されることになった。」
釈迦が開こうとしている教えの会合から、高慢心をいだいた者たちが去り、虚空会が開かれるようになったということ。
P.60
・「自己存在者(である仏陀)は、仏陀の知を人々にさとらせるために、以上のような方便を用いる。しかし、かといって、彼らに向かって『お前たちもこの世において仏陀となるであろう』などと告げるようなことはけっしてない。
それはなぜか。如実の人(仏陀)は、時を観察し、適時を見て、しかるのちに(法を)説くからである。」
「自己存在者」とは、自己の中で無限の平行宇宙が誕生・維持・消滅を繰り返し、完結しているような存在のこと。釈迦をはじめとする、具体的な各々の如来というよりも、「仏の本体(本仏)」とでもいうべき存在である。
また、『お前たちもこの世において仏陀となるであろう』とは、未来世において、このサハー世界で如来になるであろうという予言、すなわち、授記のことである。
如来への信頼を問うた後で、はじめてそのような授記が与えられるということ。
P.61
・「九部からなる私のこの教説は、衆生たちの力のあるとないとに応じて説かれたのであり、そのような方便(の教説)を、願いをかなえるもの(すなわち如来)の知に人々をはいらせるために私は説いたのである。
ここに~仏陀の息子(菩薩)たちがおり、すでに~多くの仏陀のもとで供養を行った。そのような彼らに、私はもろもろの広大な経典を説くのである。
以上のようにして、実に、彼らは意欲の完成―その内容は浄いものであるが―それを身に付けたものとなったのである。そのような彼らに対しては、『そなたたちは将来、~仏陀となるであろう』と、私は告げるのである。」
衆生たちが、授記を受けるまでのプロセスが完結にまとめられた部分。
すなわち、衆生たちは、転生を繰り返しながら、その理解力に応じて、各々の如来の方便の教えを段階的に学び、同時に帰依(すなわち、仏陀の知に対する「意欲」)を完成させてゆく。そして、時機が到来したときに、「ただ一つの乗り物」についての法が説かれ、授記が授けられるのである。
p.64-65
・「三つの乗り物を私が説くということは、そのような私の巧みな方便にほかならない。しかし、(真実の意味においては)道理は一つであり、乗り物も一つである(したがって、)指導者たちのこの説法も(すべて)同一である。~
もろもろの如来たちがかつて出現し、それら幾千もの多くの仏陀たちがすでに涅槃した。~それら(仏陀たち)の数量は、けっして(数えうるものでは)ない。~
彼ら(仏陀たち)はすべて一つの乗り物を説いたのであり、思議を超えた幾千・コーティもの生命あるものたちを、一つの乗り物のなかにすすましめ、一つの乗り物のうちにおいて成熟させる。」
釈迦や無数の過去仏たちの教えの戦略。すなわち、方便により三つの教えを説くが、ついには「ただ一つの乗り物」に衆生たちを導き入れるということについて簡潔にまとめられた箇所である。
P.66
・「また、あるものは涅槃にはいられたそれらの勝利者たちの遺骨に対して供養を行ない、宝玉でできあがっている幾千という多くのストゥパをつくり、~建立する。彼らもすべて菩提を得るものとなった。」
ここでの「遺骨」や「ストゥパ」は、見宝塔品と同じ意味。完成した宇宙。
P.66~69まで、様々な供養の行い方が示されているが、「正しい教え」の入口の広さが読み取れる。前半で「正しい教え」が真に帰依した者たちにのみ語られる崇高なものであると説かれているのとは対照的である。
広く開かれた入口と秘奥のゴールとを結ぶのが「方便」という仏の知恵ということだろう。
P.68-69
・「そのように遺骨の供養を種々に行って、彼らもすべてこの世において仏陀となった。善逝の遺骨に対して(供養が)ほんのわずかばかりであっても、~(このようなものたちも)幾コーティもの仏陀に順次お会いすることになるであろう。」
ここでの「遺骨」も、見宝塔品と同じ意味。
ここも授記についての記載と解することが出来なくもないが、「このようなものたち」は、まだ、法華経を聞く段階に至っていないことから、授記の記載とは区別しておく。
P.71
・貧困な衆生
心が貧しい衆生のこと。
P.72
・三七日(二十一日)
釈迦が菩提樹の下で、仏陀の教えを説き広めるかどうか逡巡しながら過ごした日数。
普賢菩薩勧発品で、ある人が修行して普賢菩薩にまみえるのに必要な日数と同じである(ⅡP.252~253)
P.72-73
・「そのとき、ブラフマー神(梵天)、シャクラ神(帝釈天)、世人の護世神(四天王)、マーヘシヴァラ(大自在天)、イーシュヴァラ(自在天)、それに幾千・コーティものマルトゥ神の群れが、
すべて合掌し、経緯をあらわして、私に(説法を)慫慂(しょうよう)する。」
後の化城喩品にも、同じように神々が如来(大通智勝如来)に説法を懇願する場面がある。P.213~214参照。
P.74
・「そのとき私もまた、人中の牛王(仏陀)たちの心地よい声を聞いて喜悦した。心喜悦して、私は、これら如実の人たちに言った。『きわめてすぐれた説法者である偉大な聖仙たちよ。敬礼いたします。
賢明な世間の指導者(仏陀)たちが仰せになったように、私もまた行なうでありましょう。私もまた、動乱し荒々しい(世の中)、衆生の汚濁のまっただなかに生まれたのであります(から)』と。」
釈迦が自分以外のすべての如来たちに対し、彼らと同じように「正しい教え」を三種に分け、巧みな方便で衆生たちを教え導くことを誓う場面。新約聖書において、ゲッセマネの園でイエスが言った「父上との盃」を彷彿とさせる場面である。
なお、「すべての如来」とイエスの言う「天の父上」は同じ存在である。
P.75
・「~また、彼らはかつて勝利者たちについて、種々多様に、巧みな方便としての法を聞いたのである。」
※「彼ら」:釈迦の面前にいる弟子たち
釈迦の目の前にいる弟子たちは、過去世において同じように「巧みな方便としての法」を聞いていたと言うこと。弟子の中には、過去に授記をうけたことがある者もいると思われる。
・『最高の法を説くべき時期がやってきた。その目的のためにこそ、私はこの世に生まれてきた~』
P.52~P.65を簡潔にまとめた一文。
p.76
・「このような仏陀の息子たち(がいること)を見て、(シャーリプトラよ、)お前の疑念も除かれたであろう。しかも(事実)、千二百人のすでに煩悩がなくなったもの(阿羅漢)たちは、すべてこの世において、将来、仏陀となるであろう。」
「仏陀の息子たち」は、従地涌出の菩薩たちと同じ存在である(従地涌出品参照)。
また、ここで授記を受けた「千二百人のすでに煩悩がなくなったもの(阿羅漢)たち」はシャーリプトラを始めとし、この後、改めて、順次授記を受けてゆく。
この授記は、後に続く数々の授記の概括的な意味合いを持つものだろう。
p.76-77
・「しかし、もし、あるものがこの法の正しく説かれたのを聞き、それに随喜して(讃嘆のことばを)一言でも述べるならば、彼はすべての仏陀にお仕えしたことになるであろう。~」
「正しい教え」を評価できるこの「あるもの」は、過去に授記を受けた「スーパー大菩薩」であろうと推定される。