法華経の注釈集 方便品(その1)

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)

P.40

・「そのとき、実に、世尊は念(おも)いも新たに気持を正しくして、この三昧から立ち上がられた。三昧を出られたから、尊者シャーリプトラ(舎利弗)に告げられた。―」

この三昧とは、序品の”限りなき説示の基礎(無量義処)”という三昧のこと。「法華経の注釈集 序品」の「限りなき説示の基礎(無量義処)」の箇所を参照のこと。

この箇所は、直接的には、釈迦がシャーリプトラに語りかけているという体裁となっているが、実は、転生して法華経に向き合おうとする如来の弟子たちに対しても語っている。

シャーリプトラ(舎利弗)は、釈迦の十大弟子のうちの一人。智慧第一。

 

・「シャーリプトラよ、~如来たちは、深遠で究めがたく、さとりがたい仏陀の知をさとっているのであり、(その知は)すべての声聞や独覚たちにとっては、知ることの困難なものである。それはなぜかといえば、~如来たちは、~多くの仏陀に仕え、~多くの仏陀のところで修行して、長いあいだ最高の正しい菩提に向かってふみすすみ、精進努力して、稀有であり未曾有である法を身につけ、知りがたい法をそなえ、知りがたい法を知っておられるからである。」

ここで釈迦は、如来が最高のさとりを得るまでの道のりは気が遠くなるほど長く、そのような道のりを経てようやくさとった正しい教えは、シャーリプトラがいかに優秀な声聞であったとしても、知ることは困難であるということを語っている。正しいさとりを得ることの困難さを強調している箇所である。

ちなみに、「如来たち」とは、無限の平行世界のすべての如来を意味する。

 

P.41

・「シャーリプトラよ、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちは、偉大なる巧みな方便と知見との最高の極地に達せられている。」

正しいさとりを得た如来たちは、観自在力が完成しているということ。観自在力については、「法華経の注釈集 妙音菩薩品」の「その光明によって~明るく照らし出された。」の箇所を参照のこと。

 

・「シャーリプトラよ、如来が知る法、その法を、如来こそが如来に対して説かれるのである。あらゆる法をすべて、シャーリプトラよ、如来こそが説くのであり、あらゆる法を如来のみが知るのである。」

法華経が「如来が如来に対して説く法」であることを端的に説明した一節である。

とはいえ、如来が法華経を説く相手は、未来の如来、すなわち、これから授記を与える弟子たちとすでに過去世において授記を得た弟子(スーパー大菩薩)たちであり、この後、実際にシャーリプトラをはじめとする弟子たちに釈迦は法華経を説き始めるのである。

 

P.41-42

・「それらの法はなんであるか、それらの法はどのようにあるか、それらの法はいかなる態様か、それらの法はいかなる本性があるか。すなわち、それらの法そのもの、(その)あり方、態様、特質、本性という、これら(法そのものからその本性にいたるまでの五種)の範疇(法)について、如来だけが直知しるのであり、明晰な知を有するのである。」

有名な「十如是」に相当する部分である。ただし、「十如是」として記されているのは、鳩摩羅什の漢訳のみであり、サンスクリット本は上記の「法そのもの、(その)あり方、態様、特質、本性」という五句が記されている(P.282参照)。

これは私見であるが、「十如是」は羅什が自らの解釈を加えて、思い切った意訳をしたのではないだろうかと考える。

とはいえ、この「十如是」が天台智顗の「一念三千」の論理的構成要素の一つとなり、日本の仏教にも多大な影響を与えたのは間違いない。

参考までに、「十如是」の漢訳を記載しておく。

「如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。」(岩波 上 P.68)

 

・「~だれか(ある衆生)に向かってこの法を説き、説かれた法を(彼が)理解する、そのような衆生は、この世間には一人も存在しない。信順の気持ちをもって出で立っている菩薩たちを除いては。」

ここでの「信順の気持ちをもって出で立っている菩薩たち」は過去世で授記を受けたいわゆる「スーパー大菩薩」たちのことを指す。

法華経は授記を受けた菩薩たちが転生を繰り返しながら理解し、最後の如来となる一生で完全に理解するという構造を持っている。

 

P.44

・「(その彼ら)が一体となって、善逝がまのあたりに実証した法を~考察したとしても、この(善逝がまのあたりに実証した法の)なかには、彼らの知の対象となるものは存在しない。」

※「その彼ら」:「煩悩がなく、機根が鋭く、その身体が(輪廻における)最後(の身体)であるような独覚たち」(P.43)

解脱したような独覚であっても、如来のさとりは彼らの知性ではわからないということ。

 

・不退転の菩薩

中公文庫版『法華経』には、以下の注釈が付されている。

「不退転は、さとりへの道からあともどりすることがないこと。したがって、不退転の菩薩は、やがて仏陀になることが決定している。」(P.283)

小宮氏は、この「不退転の菩薩」を「過去に授記を受けた『スーパー大菩薩』である」と説明している。

 

P.45

・「~長年にわたって、最高の真理をお説きになっている。」

如来は入滅後も教えを説いているということ。

 

P.51

・「世尊がこのことばを告げられるやいなや、そのとき、その集会のなかにいた、思いあがっている(増上慢)五千人の比丘・比丘尼、信男・信女が席を立って、~その集会から立ち去っていった。」

自らは最高のさとりを得たと思っていたが、それが誤りであったと認められない者たちが、間違った自尊心をかばうために教えの集会から立ち去ったということ。

今でいう、詐欺的な宗教団体の教祖たちのような人間たちも、このような者たち中に入るであろうか。

 

P.51-52

・「シャーリプトラよ、私の集会は(不要の)籾殻(もみがら)が除かれ、無価値なものがいなくなって、信仰の核心の上に立つものとなった。シャーリプトラよ、彼ら高慢なものたちが去ったことは、よいことである。そこで、実に、この意味を私は説こう」

有名な「籾殻」のたとえの箇所であるが、「無価値なもの」とは、無限の宇宙の誕生・拡大・消滅のプロセスに何ら寄与しない存在たちのことを指す。

なお、小宮氏によれば、仏教における「高慢」には、強い非難のニュアンスがあるらしい。

 

P.52

・「シャーリプトラよ、正しい法は思慮分別を超えたもので、思慮分別の及ばない範囲にあり、如来によって(のみ)理解されるものである。」

「正しい法」とは、全宇宙のしくみのこと。そのような「正しい法」についての教説は如来によってしか真に理解されないということ。「如来が如来に説く教え」を端的に語った一節。

 

・「ただ一つの仕事のために、一つのなすべき事柄のために、~如来は世間にあらわれるからである。」

「ただ一つの仕事」とは、弟子たちを育て上げ、解脱させ、授記を与え、「正しい教え」を承継させることである。

 

P.53

・「如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、~如来は世間にあらわれるのである。これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事~であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。」

上記と同趣旨。

 

P.53-54

・「私は、シャーリプトラよ、ただ一つの乗り物(一乗)について、衆生たちに対して法を説く、すなわち、それは、仏陀の乗り物(仏乗)を説くのであって、~(そのほかに)何か第二の乗り物、あるいは第三の乗り物が存在するのではない。シャーリプトラよ、あらゆる十方の世界において、このことが法の本来のすがた(法性)なのである。」

「ただ一つの乗り物(一乗)」である「仏陀の乗り物(仏乗)」とは、授記とそれを受けた後の菩薩道のことである。

ちなみに法華経において「乗り物」とは、仏陀の教えを意味する(P.283~284参照)。

 

P.54

・如来の知見

「如来のさとり」のことであるが、小宮氏によれば、ここではとくに「虚空会」を意味している。

 

P.57

・「『(過去・未来・現在にわたる)十方の世界のどこにおいても、第二の乗り物が設定されるようなことはない。まして第三の乗り物につちえはいうまでもない』」

P.54の5行目からP.57の8行目までを簡潔にまとめた一文。

過去・未来・現在のすべての如来が説くのは、一見、独覚・声聞・菩薩の三乗であるように見えるが、実は、「一切知者たることを究極の目的とする仏陀の乗り物」だけであるということ。

 

・「しかしながら、~如来たちはかのだた一つの(乗り物である)仏陀の乗り物を、巧みな方便によって三つの乗り物に分解して説くのである。」

上記に続く一文。ここでの三つの乗り物は、独覚乗・声聞乗・菩薩乗である。独覚乗・声聞乗が小乗にあたるが、当時、小乗の最高位は阿羅漢であり、阿羅漢は仏陀になれないとされていた。他方、大乗にあたるのが仏陀へと続く道である菩薩乗である。しかしながら、ここでは、真実の意味においてはこれら三乗の区別はなく、ただ「仏陀の乗り物」の一乗のみがあると説かれている(「開三顕一」)。詳しくはP.283~284参照。

 

P.58

・「~お前はそのものを傲慢なものと知るべきである。」

上記でも述べたとおり、「傲慢」には、釈迦の強い非難の意味が込められている。阿羅漢を称しながら、正しい菩提に向かわないという態度は、仏教徒としてあり得ないということだろう。

 

P.58-59

・「さらにまた、シャーリプトラよ、~如来たちが(この世に)おられるときは、(そのみもとではじめて)これら仏陀の法に対して彼らは疑いなきものになるであろうからである。シャーリプトラよ、お前たちは、私に対して信を置き、信頼を託し、信順すべきである。」

「正しい教え」の真の理解には、如来への帰依が前提になるということ。

如来寿量品の釈迦が「私を信頼せよ」と三度呼びかける場面に通じる箇所。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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