法華経の注釈集 譬喩品(その1)

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)

P.81-82

・「世間の幸福を思ってあわれみを垂れたもうあなたにお会いしてから、ひとり日中の休息のために歩きまわりながら、『ああ、私は迷い出て、さえぎられることのない思慮を超えた知から離れている』と思いわずらいました。

主よ、このように私は思いわずらいながら、中やの大部分をすごします。とにかく、世尊におたずねしたいのです。『私は(正しい道)から脱落したのでしょうか。それともそうではないのでしょうか』と。」

上記はシャーリプトラの言葉として語られているが、法華経の編纂者たちは、彼を当時の小乗仏教の声聞を代表する人物として描いているようだ。

学術界においては、法華経が現存する形で編纂されたのは紀元後1世紀末から3世紀初頭の間であると推定されているが(植木雅俊著 『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.181)、当時の小乗仏教においては、修行者たちの最高位は阿羅漢であり、釈迦と過去六仏、そして未来の弥勒菩薩以外はけっして仏陀にはなれないとされていた(同 P.93)。

シャーリプトラの「思いわずらい」の原因は、そのような劣った涅槃しか得られないことにあったのであろう。

なお、声聞の悟り、すなわち、阿羅漢の悟り(解脱)の段階で授記を受けられれば、その上の段階、「神意識(如来)の悟り」に進めることになり、涅槃より高次元の真空(無生法忍)では、釈迦と弟子たちは意識を共有しており、テレパシーで理解しあえる。しかしながら、真空についての認知の幅は、如来と弟子では全く異なっている(当然ながら弟子たちの認識の幅は如来には遠く及ばない)。

 

P.82-83

・「その誤った見解からすべて離脱し、私は存在は空であることをさとったので、そこで『私は涅槃したのだ』と(自分で)思いました。しかし、これは(ほんとうの)涅槃だとは言われません。

これに反して、最高の衆生として仏陀となり、人間、神々、ヤクシャ、ラークシャサによって崇められ、三十二の相のある身体を有するものとなったとき、(その人こそ)完全に涅槃したのです。」

「その誤った見解」とは、シャーリプトラが外道の教え(不可知論の一派)を信奉していた頃の見解である。「その誤った見解」から離れ、存在は空であることを理解したとても、それは仮の涅槃に過ぎないと言っているのである。

 

P.83

・「(仏陀の)お声を聞いて、私のむだな思い(疑悔(ぎげ))はすべて除かれ、私は今日、涅槃をえることができました。すなわち、神々をふくむ全世界の前で、最高の菩提に(私が)到達するであろうと予言してくださったそのときにです。」

他方、菩薩行により、授記と虚空会が何であるか理解し、最終的には仏陀として最高の菩提に到達することこそが、完全な涅槃であるとシャーリープトラは言っている。

ここで、「涅槃をえることができました」と述べているが、「将来(仏陀としての)涅槃を得るという予言を得た」という趣旨であろう。

 

P.83-84

・「完全な涅槃にはいられた過去の勝利者たち、幾千・コーティもの仏陀たちを、またそれら(仏たち)が巧みな方便のなかにあって、この(同じ)法をお説きになったありさまを、私にむかっておほめになったとき、

また、多くの未来の仏陀たちや、また最高の真理(第一義)を見るものとして現にこの世におられる(仏陀たち)が、幾百という方便を用いて、法を将来説かれるであろうし、また現にいまといておられるのを(おほめになったとき)、~」

過去・現在・未来のすべての仏たち(実は彼らの存在には時間的な本来区分はないのだが)が巧みな方便によって仏陀の菩提へ至る法を衆生たちに説くということ。

ちなみに、ひとりの如来を中心として過去・現在・未来のすべての仏たちが一堂に現れ、融通無碍に繋がり合っているのを認識できるのが虚空会である。

 

P.84

・「さらにまた、あなたご自身の、出家をなさってからこのかた、どのように修行されたのか、どのような法輪をさとられたのか、そして説法ということがあなたにどのように確立されたか、~」

「どのような法輪をさとられたのか」以降は、方便品 P.72~75参照。

 

・「神々をふくむこの世間において、尊崇をうけ、必ずや私は如来となることでしょう。そして、さとりを求める多くの人々(菩薩たち)を導いて、この仏陀の菩提をうちに秘めながら(法を)説くでありましょう。」

小宮氏によれば、この箇所には見宝塔品にいたるまでの法華経前半のエッセンスが読み取れるとのことである。すなわち、釈迦より授記を受けたことにより、将来、シャーリープトラも如来となって虚空会(教えの会合)を開催し、そこに多くの人々を導きいれ、自らも弟子たちに授記を与えるという意味合いも含まれているということである。

 

P.85

「シャーリプトラよ、私はお前を、(古い昔からいままでに二百万コーティ・ナユタもの仏陀のもとで、この上ない正しい菩提に向かうように、成熟させてきたのである。~しかし、~お前は菩薩としての~かの過去における(みずから立てた修行や誓願、また菩薩としての(熟慮の結果の)計画や、菩薩としての秘密を思い出さないで、自分は涅槃にはいったと思いこんでいるのである。この私は、~(お前の)過去の修行や誓願、知をさとったことをお前に思い出させようとして、この”正しい教えの白蓮”という法門~を声聞たちに向かっていまや明らかにするのである。」

ここでは、シャーリープトラが過去世において菩薩であったと言っている。それにもかかわらず、そのことを忘れて、完全な涅槃にはいったと思いこんでいたのである。

声聞としての涅槃は如来の方便にすぎず、最高の菩提ではない。真実の意味における涅槃、すなわち、生命進化の最高の到達点は菩薩行の完成による仏乗のみによってたどり着くことができるのである。

ちなみに、ここでのシャーリープトラを育成してきた「私」は、菩薩であった頃も含めた釈迦自身のことを指していると考えられる。菩薩であった頃の釈迦については化城喩品、提婆達多品あるいは常不軽菩薩品を参照のこと。

 

・「また、実に、シャーリプトラよ、お前は将来~多くの仏陀たちの正しい法を保って、いろいろな供養を行い、この菩薩の行を完成して、”紅蓮の光明あるもの(華光)”という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。」

ここからP.84の4行目までがシャーリープトラへの授記の場面である。

この華光如来の仏国土(離垢)は、食物が豊かであったり、「多くの男女の群れが満ち」ていることから、3次元世界を象徴していると考えられる。

 

P.86

・「シャーリプトラよ、正しいさとりを得た尊敬さるべき華光如来もまた、三つの乗り物について法を説かれるであろう。」

未来仏の一人である華光如来もまた、方便により三つの乗り物を設定し、教えを説くということ。

 

・「~その如来は汚濁のある劫(劫濁(ごうじょく))のなかには生まれないのではあるが、~」

ここの記載の意味はよくわからないが、この後の「~(その)仏陀の国土においては、菩薩たちは宝であるといわれる」という記載に繋がっており、宝である菩薩たちがあふれる時代なので劫濁ではないということだろう。

 

・「~その(時代の)劫は”大きな宝で飾られた(大宝荘厳)”という名で呼ばれるであろう。」

ここでの「大宝荘厳」は、P.88では「“多宝(大宝厳)”」と言い換えられている。「多宝」とは、見宝塔品以降の「多宝如来」の多宝と同義であると考えられる。

 

・「~(その)仏陀の国土においては、菩薩たちは宝であるといわれる。」

「多宝」の「宝」は未来仏であると同時に完成した過去仏であると考えられるが、ここでの菩薩たちは、いずれ未来仏となるであろうという意味が込められている。

 

P.87

・「~その仏陀の国土にいる菩薩たちの大部分は、宝の蓮華を踏んで歩むものとなるであろう。また、それらの菩薩は、はじめてさとりに志したものではなく、~」

「宝の蓮華を踏んで歩むものとなるであろう」菩薩たちは、華光如来よりも過去世において授記を受けた「スーパー大菩薩」を指していると推測される。

 

・”剛毅に満ちた(堅満)”と名づける菩薩大士(後の華足安行如来)

華光如来の弟子であるが、「私につづいて、この上ない正しい菩提をさとるであろう」とあることから、釈迦にとっての弥勒菩薩と同じような、宇宙の始まる理由を探求する存在であると考えられる。

 

・『比丘たちよ、この堅満菩薩大士は私につづいて、この上ない正しい菩提をさとるであろう。』

華光如来による堅満菩薩に対する授記。この授記は「授記の中の授記」という法華経の中でも特異な例であるが、如来から(未来の)如来へという授記の連続性を示すものである。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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