法華経の注釈集 序品(その2)

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)

P.24

・「良家の子らよ、それは、偉大な法を(全世界に)響きわたらせる講説をなさろうとするお考えが如来にあることなのです。」

釈迦如来がこれから偉大な教えの会合を開こうとしているということ。

ちなみに、この「教えの会合」は、見宝塔品の無限の未来仏が登場する場面以降では「虚空会」となる。

 

P.25

・「~それら昔の正しいさとりを得た尊敬さるべきもろもろの如来も、同じように放たれた光明により輝いたのであり、~」

ここで、マンジュシリーがかつて幾度となく同様の光景を見たと語っているが、これは彼が釈迦の説く教えというだけでなく、かつての日月燈明如来を含めた数々の如来の教えであったということを意味している。

 

・「それはなぜかといえば、~信じがたい教えの門を、~如来が聞かせようと望まれるときには、それに応じて、このような大奇蹟や光明を放って輝かすという前兆を示されるからです。」

「信じがたい教えの門」とは「正しい教えの白蓮(法華経)」のこと。また、如来が教えの会合を開こうとしているときには、このような前兆が示されているということを言っている。

 

P.26

・六つの完全性(六パーラミター)

菩薩行の完成のこと。前述の「すべての心の自由の最高の極致(波羅密多)」の箇所を参照のこと。

 

・「さらにまた、良家の子らよ、(この)正しいさとりを得た尊敬さるべき日月燈明如来から、その後順々に、同じく日月燈明という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来が、この世にあらわれました。アジタ(マイトレーヤ)よ、次々に同じように述べていって、二万の如来たち-すべて日月燈明という名のある、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たち~-がおられました。」

非常に難解な一節であるが、無限の平行宇宙に日月燈明如来の分身がそれぞれいたということ。見宝塔品の「シャーキア・ムニ如来の分身たち」と同趣旨。

「その後順々に」や「次々に」という表現が整合しないが、おそらく釈迦が説いた趣旨が正しく訳されていないのだと考えられる。

ちなみに「二万」という数字には固有の意味はなく、単に「無限」という意味に理解してよい。

 

P.28

・(日月燈明如来の)”偉大なる説示(無量義)”と名づける法門

・(同如来の)”限りなき説示の基礎(無量義処)”という名の三昧

前述した釈迦の「”偉大なる説示(無量義)”と名づける法門」および「”限りなき説示の基礎(無量義処)”という名の三昧」の箇所を参照のこと。

ちなみに「”限りなき説示の基礎(無量義処)”という名の三昧にはいられて」とは、日月燈明如来が弟子たちに授記を与え終えて入滅し、「宇宙が始まる前の真空」の状態に戻っていることを意味する。

 

P.29

・「実に、そのときに、かの世尊、日月燈明如来の眉間の白毫から一条の光明が放たれました。」

前述した釈迦の「一条の光明が放たれた」の箇所を参照のこと。

ここは、日月燈明如来が弥勒と同じ立場にある菩薩たちに無限の平行宇宙を見せたということになるであろう。

 

・”すぐれた光明(妙光)”という名の菩薩

日月燈明如来の語る「正しい教えの白蓮」を人格化したもの。

妙光菩薩の未来世が文殊菩薩であるということは、日月燈明如来の法華経は、すなわち、釈迦如来の法華経でもあるということを意味している。

 

P.29-30

・「そこで、~日月燈明如来は、”正しい教えの白蓮”という法門~を説いて六十中劫が過ぎると、その刹那、その瞬間に、完全な涅槃にはいるであろうことを宣言されました。~『今日、比丘たちよ、今宵の夜更け、真夜中に、如来は煩悩の余燼すらない涅槃界(無余依涅槃(むよえねはん))に入って涅槃するであろう』と言って。」

字句どおり「今日、涅槃する」というだけでなく、弟子たちが転生する未来世においても日月燈明如来は涅槃しており、彼が説いた法華経が遺されている(だから、それを学びなさい)ということをも意味している。

 

P.30

・「~この上ない正しい菩提を得るであろうと予言して、~」

(吉祥胎菩薩に)授記を与えたということ。

 

・「そして、その”正しい教えの白蓮”の法門は、かの妙光菩薩大士が護持したのであります。」

日月燈明如来の法華経に、彼の教えが記述され、保存され、後世の菩薩たちによって学ばれたということ。

 

P.31

・ディーパンカラ(燃燈)如来

釈迦の過去世において、授記を与えた如来。仏教における、如来になるためには授記を受けることが必須であるという思想は、この釈迦が燃燈仏に授記を受けたといういわれに基づくものである。

 

・求名

弥勒の過去世。妙光菩薩により育成された(実際には日月燈明如来の法華経について学んだ)800人の弟子の一人であり、日月燈明如来の授記を受けている(だからこそ、弥勒として転生し、釈迦の法華経を聞いているのだ、といえる)。

 

・「なぜかといえば、私こそは、そのときその場の、妙光と呼ばれる菩薩大士であり、説法者であったからです。」(文殊菩薩の言葉)

日月燈明如来の法華経、すなわち、妙光菩薩は、弥勒菩薩が今生において聞いている釈迦の法華経、すなわち、文殊菩薩である、ということ。

 

P.32-33

・「彼、世間の保護者は法を説かれたが、それはすぐれた”限りなき説示(無量義)”という経典で、これは名づけて”広大(な大乗経)”と呼ばれ、(それを)彼は幾コーティもの生命あるもののために解き明かされた。

かの指導者は(法を)説きおわるやいなや、~すぐれた”限りなき説示(無量義処)”という三昧にはいられた。」

すでに前述したが、「『無量義経』を説いた」とは、日月燈明如来が弟子たちに教えを説きながら授記を与えたことを指し、「『無量義処』という三昧に入った」とは、入滅し、「空」の状態に戻ったということを表している。

これを弟子の視点からみれば、授記を受けるまでが前者であり、授記を受けた後の、転生を繰り返し理解を深める歩みが後者であるといえる。

小宮氏は「授記を受けた後の(転生を含めた広い意味での)人生が法華経(の理解)に刻まれている」と語っている。

 

P.36

「私が涅槃しても、比丘たちよ、恐れてはならぬ。私のあとに(他の)仏陀があらわれるであろう。

この賢者、吉祥胎菩薩は、煩悩のない知に精通し、最上、最高の菩提に達するであろう。そして離垢眼という名の勝利者になるであろう」

日月燈明如来の吉祥胎菩薩に対する授記。如来の授記を受けた弟子は、その如来の最末法に転生し、如来が遺した法華経を学ぶという。

この箇所を素直に読めば、吉祥胎菩薩が次の如来としてあらわれると読めるのであるが、授記を受けるのは生命存在として一回限りと小宮氏が語っていることと、授記を受けた後に数々の仏たちを喜ばせる(つまり、転生を繰り返して学びを深める)と法華経の随所に書かれていることを考慮すると、単純にそのように読むべきではないであろう。

ここはひとまず、日月燈明如来の後に無数の如来が現れるが、その中の一人が吉祥胎であると理解していただきたい。

 

・「その遺骨は広く(国土中に)分布され、幾コーティ・ナユタという無数のストゥパが建てられた。」

如来の弟子たちが各地で教えを広め、衆生たちを解脱させて仏の道に導きいれたということ。

ここでいう「ストゥパ」は見宝塔品の「多宝塔」と同義であるが、これは各地で多宝如来が現れて賞賛の声を挙げるような「正しい教え」の教説がなされたということを意味する(詳しくは見宝塔品を参照のこと)。

 

P.37

・「(彼らは)そのとき、(菩提に)ふさわしい修行を行ない、多くの世界において仏陀となった。そして、そのとき、彼らは次々につづいて、互いに最高の菩提を得ることを予言し合った。

また、これらの仏陀の系列の最後のものが、ディーパンガラであった。」

日月燈明如来の意志を引き継いだ妙光菩薩(すなわち、日月燈明如来の法華経)が育んだ800人の弟子たちが、後に多くの世界で仏陀となったということだが、「予言し合った」とう表現が難解である。

「予言し合った」とは、妙光菩薩が育成した仏陀たちが、ある世界では師として、また、ある世界では弟子として、立場を変えながら「未来世において如来となるであろう」という授記を与え合ったということを意味している。

普通に考えれば、「師の師は弟子であり、弟子の弟子は師である」ということはあり得ないのであるが、11次元的な時間と空間を超越した「無限パターンの世界が存在する」場ではそれがあり得るのである。

ところで、新約聖書でイエスが最後まで付き従った弟子たちに敬意をもって「友」と呼んだり、彼らの足を洗う場面があるが、この「予言し合った」に通じるのではなかろうか。

この「予言し合った」という表現と、その後の「仏陀の系列の最後のもの」という表現が整合しないが、これはディーパンカラが釈迦と関係性において「最も近い」ということを意味していると考えるべきだろう。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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