(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)
P.198
・「『そのとき、宿王華よ、その一切衆生喜見菩薩大士は、泣き叫び、嘆き悲しんだあとで、八万四千個の七宝よりなる瓶(へい)をつくらせて、そのなかにかの如来の遺骨を納めた。』」
「八万四千個の七宝よりなる瓶」とは、無数の人々の三千世界、すなわち精神性(器)という意味。日月浄明徳如来が遺した”法華経”を多くの人々に広めたということであろう。
・「『それから、~八万四千の七宝よりなるストゥパを建てた。』」
「ストゥパ」も人々の高い精神性の象徴である。つまり、多くの人々に教えを説き、解脱に導いたということ。
P.199
・「『そこで、宿王華よ、その一切衆生喜見菩薩大士は、そのとき、かの八万四千の、如来の遺骨を納めたストゥパの前で、百の福徳(の瑞相)で飾られた自分の腕を燃やした。七万二千年のあいだ燃やして、それら如来の遺骨を納めたストゥパに供養を行なった。そして、供養を行ないつつ、彼は、かの集会のなかの幾百・千・コーティ・ナユタもの数えきれぬほどの声聞たちを教化した。また、(そのために)かの菩薩たちは、すべて現一切色身という三昧を得たのである。』」
腕を燃やす例えは難解だが、おそらく身を捨てる覚悟で教えを広めたということであろう。「七万二千年」という時間の長さには、何回も転生を繰り返したという意味が含まれ、一切衆生喜見菩薩の弟子である「かの菩薩たち」は、はるか未来世で授記と現一切色身三昧を得たということであろう。
P.200
・「『そのとき、宿王華よ、その一切衆生喜見菩薩大士は、それらの菩薩たち、偉大な声聞たち、天子たちに告げた。
『良家の子らよ、お前たちは、私が不完全な体になったのを見て、泣き叫び、嘆き悲しんではならない。良家の子らよ、~すべての仏陀・世尊たちを証人として、そのおん前において、真実の誓言をたてる。〈私が如来を供養するために、みずから私の腕を喜捨するならば、真実をもって、真実の語をもって、私の腕はもとどおりになれかし。~〉と』
さて、宿王華よ、その一切衆生喜見菩薩大士がこの真実の誓言をたてるやいなや、~その一切衆生喜見菩薩大士の腕はもとどおりになった。それはすなわち、その菩薩大士が知恵の力と福徳の力を獲得していたことによるのである。』」
自分の腕を燃やしたという例え同様、その腕がもとどおりになったという例えも意味がよくわからないが、おそらく、このサハー世界は教えを広めるための仮想世界であり、そこで教えのために自分の身体の一部を失っても、それは大したことではないということであろう。
P.201
・「『また、宿王華よ、菩薩の乗り物によって出で立った良家の息子にせよ娘にせよ、この上ない正しい菩提を求めて、如来の塔において、足の親指を燃やしたり、一本の手の指あるいは足の指、一本の足あるいは腕を燃やすとしよう。~これに対して、王国を喜捨することも、~三千大千世界を喜捨することも、まったくこれには及ばない。』」
自分の身体に火をつける例えは、自分の身を捨てる思いで法華経を説くということ。それに対して、その他のどのような喜捨も、その価値において、その不惜身命の行ないには全く及ばないということ。このような法華経の価値を強調する表現は、見宝塔品や分別功徳品、随喜功徳品にも見られる。
P.203
・「『たとえば、宿王華よ、~この”正しい教えの白蓮”という法門は、如来がお説きになったあらゆる経典を超えて崇高であり、(そのうちの)第一のものであると知らねばならない。宿王華よ、実に、この経典の王を受持する衆生たちも、第一のものであると知れねばならない。』」
法師品と同様に、ここで法華経とその受持者が「第一のものである」ことが高らかに宣言されている。
P.204
・「『また、宿王華よ、この”正しい教えの白蓮”という法門は、あらゆる衆生たちをすべての恐怖から救うものであり、すべての苦しみから解放するものである。喉が渇いた人々にとっての池のように、寒さに苦しめられる人々にとっての火のように、~この”正しい教えの白蓮”という法門は、すべての苦しみから解放するものであり、すべての病を根絶するものであり、すべての輪廻の恐怖と束縛との狭く険しい道から解放するものである。』」
このあたりの記載は、観世音菩薩普門品と類似している。
P.204-205
・「『そして、宿王華よ、この”正しい教えの白蓮”という法門を聞く人、書写する人、書写させる人、宿王華よ、それらの福徳の集積は、仏陀の知によっても、その際限は知ることができない。良家の息子にせよ娘にせよ、この法門を受持したり、読誦したり、教示したり、聴聞したり、書写したり、書物にしたりして、~供養するとしよう。その人は同じく(仏陀の知によっても量り知れない)福徳の集積を生み出すであろう。』」
法華経と向き合う功徳は量り知れないということ。分別功徳品にも同様の記載が見られる(P.128~129参照)。
P.205
・”幸福に満ちた(安楽)”世界
仏国土の例えだと考えられる。
・”無量の寿命(阿弥陀)如来”
ここでの阿弥陀如来は、いわゆる”阿弥陀信仰”とのつながりは薄く、”すべての如来たち”ぐらいの意味であろう。
P.205-206
・「『(その人は、そこに)生まれるやいなや、五種の神通力を得るであろう。また、ものは本来生ずることがないと認容する知(無生法忍)を得るであろう。~その菩薩大士は、七十二のガンガー河の砂(の数)にも等しい如来たちを見るであろう。このように完全に清浄な眼根を、その人は所有するであろう。その清浄な眼根によって、その人はかの仏陀・世尊たちを見るのである。』」
「五種の神通力」とは、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通の5つの超人的能力のこと(ⅠP.274-275参照)。
「清浄な眼根」については法師功徳品にも記載されている(P.145-146参照)。無限の仏陀たちを見ることができる「清浄な眼根」を得ることが、「無償法忍」を得ることに等しいといえる。
P.206
・「『『良家の子よ、お前のこの福徳の集積は、千の仏陀たちでも説きつくすことはできない。』』」
薬王菩薩の福徳の集積が、次の一生で如来となるレベルにあるということ。小宮氏は、法華経に登場する、弥勒、薬王、妙音(観自在)、普賢は、菩薩の成長レベルを表していると説明しており、弥勒→薬王→妙音(観自在)→普賢の順にステップアップしていくと語っているが、この薬王菩薩本事品に限って言えば、薬王を、妙音と同様に、次の一生で如来(普賢)となる菩薩として描いているようだ。また、現一切色身三昧によるサハー世界への来訪を描いているという点で、本章は妙音菩薩品に原型を示しているとも言える。
P.206-207
・のちの時代、のちの時節、のちの五百年
”これからの500年”というよりは、”最末法”という意味である。
P.207
・魔王パーピーヤス
小宮氏はこの「魔王パーピーヤス」を「自殺願望を象徴する存在」と語っている。
・魔王に属するものたち、神々、龍、ヤクシャ、ガンダルヴァ、クンバーンダ
序品や本章冒頭の「神々、龍、ヤクシャ、ガンダルヴァ…」などは仏法に帰依した存在として描かれているが、この文脈では「魔王に属するものたち」として人々を苦しめる存在として語っている。小宮氏によれば、「神々、龍、ヤクシャ、ガンダルヴァ」は三次元世界でいえば、獣に近いものである。また、「クンバーンダ」は”地獄の衆生”という意味である。
・病
この文脈での「病」は、どちらかといえば精神的な病のことである。
・「『『この良家の子は菩提の座に行くであろう。~この人は生死の海を渡るであろう』』」
(法華経を受持する比丘が)いずれ如来になるであろうということ。
P.208
・「~八万四千の菩薩たちが、~ダーラニーを獲得した。」
「ダーラニー」とは(経典の字句)を忘れないようにするための呪文のこと(奥平亜美衣、小宮光二、『真訳 法華経』、廣済堂出版、P.184参照)。転じてここでは、多数の菩薩たちが法華経の要旨を理解したということ。