法華経の注釈集 薬王菩薩本事品(その1)

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)

 

P.191

・薬王菩薩

 法華経に登場する主要な菩薩の一人。存在の次元構造では8次元、自然界の”4つの力”では”強い相互作用”を象徴する。

 菩薩は転生を伴う如来への成長のステップとして、①弥勒→②薬王→③妙音(観自在)→④普賢という段階を踏むことになる。法華経の本編(序品~如来神力品・嘱累品)では、薬王は弥勒の次の段階にあると思われるが、本章(薬王菩薩本事品)では、妙音(観自在)と同様に、次の生涯で如来(普賢)となるべき菩薩として描かれているようである。

 

・「そのとき、”星宿の王によって開花された神通をもつ(宿王華)”菩薩大士が、次のように世尊に申し上げた。

『世尊よ、どうして薬王菩薩大士は、このサハー世界において遊歴するのであろうましょうか。世尊よ、しかも彼には、幾百・千・コーティ・ナユタもの多くの困難な仕事(難行苦行)があるのであります。どうか、~如来は、薬王菩薩大士の修行のどこか一部だけでもお説きください。それを聞いて、神々、龍、ヤクシャ、ガンダルヴァ、アスラ、キンナラ、マホーラガ、人間や人間以外のものたちは、聞いて喜び、満足し、心高まり、狂喜するでありましょう』」

 法華経では、たとえば序品における弥勒菩薩や、妙音菩薩品の華徳菩薩のように、しばしば読者の分身ともいえるキャラクターを登場させ、釈迦と問答させるというストーリー展開の仕方をとる。ここでも、そのような手法がとられている。

 ここで聞き手として登場する宿王華菩薩もそのような読者の分身であり、小宮氏は、この問いができることこそが”華”であると語っている。この問いがなければ、”ビッグバンによる宇宙”は始まらないのである。

 また、この問答の舞台は、教えの会合というかたちをとっているが、実は読者自身の内的世界であり、「神々、龍、ヤクシャ、ガンダルヴァ、アスラ、キンナラ、マホーラガ、人間や人間以外のものたち」とは、様々な心理作用の象徴である。このような読者の内的世界で分身に問わせるという構造は、序品の冒頭にも見られる。

 

P.192

・「『ところで、宿王華よ、~日月浄明徳如来には、八十・コーティもの菩薩大士たちの大きな集まりが属しており、七十二のガンガー河の砂(の数)にも等しい声聞たちの集まりが属していた。~その仏陀の国土は掌のように平坦で、快く、~(それぞれ天にも届く)宝玉の高閣が建てられていた。そして、すべての宝玉の頂きでは、幾百・コーティもの天子たちが、~日月浄明徳如来を供養するために楽器や鐃鈸(シンバル)や合唱の響きをたてていた。』」

 薬王菩薩の過去世での師である、日月浄明徳如来の仏国土の情景である。「八十・コーティもの菩薩大士たち」は過去世において授記を得ており、「七十二のガンガー河の砂(の数)にも等しい声聞たち」とともに、教えの会合(虚空会)に参加しているのである。「宝玉の高閣」とは、そのような教えの聴衆たちの解脱した高潔な精神性の象徴である。

 ちなみに、日月浄明徳如来とは、具体的な如来というよりも、「月と太陽との汚れなき光明により吉祥なもの」という名前に象徴されるような数々の如来の総称ということであろう。

 

・”あらゆる衆生がまみえて喜ぶ(一切衆生喜見)”菩薩大士”

 

薬王菩薩の過去世。「あらゆる衆生がまみえて喜ぶ」という表現は利他の精神を表したものだが、こちらも具体的な菩薩というよりは、そのような菩薩の象徴ということであろう。そのような菩薩たちのために、日月浄明徳如来が法華経を説いたということである。

 なお、小宮氏は、この一切衆生喜見菩薩も、(法華経が「次の如来へのメッセージ」であるという意味で)読者の分身であると語っている。

 

P.193

・「『ところで、宿王華よ、~日月浄明徳如来の寿命の長さは、四万二千劫であり、かの菩薩大士たちや、かの偉大な声聞たちの寿命の長さも、ちょうどそれと同じだけであった。』」

 ここでの「四万二千劫」という寿命の長さには、無限という意味が含まれており、日月浄明徳如来から生まれる無限の未来仏たちの寿命が含まれていると考えられる。

 また、菩薩や声聞たちも同じ長さの寿命であるというのは、如来となった彼らから生まれる未来仏たちの寿命も含めれば、彼らもまた無限の寿命を持つということである。

 

・「『そして、かの一切衆生喜見菩薩大士は、その世尊のもとにおいて困難な修行に専念した。彼は一万二千年ものあいだ経行(きんひん)の場に登り、非常な精進努力を行なって、瞑想(ヨーガ)に専念した。一万二千年たったのち、彼は”あらゆる姿形をあらわし出す(現一切色身)という三昧を獲得した。その三昧を獲得するやいなや、かの一切衆生喜見菩薩大士は満足し、~そのとき次のように考えた。

『この”正しい教えの白蓮”という法門のおかげで、私は現一切色身三昧を獲得したのである』」

 ここで、一切衆生喜見菩薩が、12,000年のあいだ修行したとあるが、実際には何度も転生しながら修行を重ねたということである。仮に一つの文明が1200年であるとすると、この菩薩が10回は転生したという意味にも読める。

 また、ここでの「瞑想」の修行は、この後の部分で「この”正しい教えの白蓮”という法門のおかげで、~」とあるように、法華経を読んだり、書写したりしながら理解を深めるような修行である。

 「あらゆる姿形をあらわし出す(現一切色身)という三昧」ついては、「法華経を読み解くキーワード集 8.ビッグバン(現一切色身三昧)」を参照してほしい。ちなみに、この三昧を得たということは、如来から授記を得たということをも意味する。

 

P.193-194

・「『そのとき、かの一切衆生喜見菩薩大士は次のように考えた。

『さて、私は、世尊の日月浄明徳如来と”正しい教えの白蓮”という法門とに供養を行なうとしよう』

 そのとき、彼はそのような三昧にはいった。その一切衆生喜見菩薩大士が三昧に入るやいなや、そこでまず、頭上の空中よりマーンダーラヴァや大マーンダーラヴァの花々の大きなな花の雨が降りそそがれた。カーラ・アヌサーリン栴檀の雲が形成され、ウラガ・サーラ栴檀の雨が降りそそがれた。しかも、宿王華よ、そのような香の種類は、値段の点では、その一カルシャがこのサハー世界に相当するほど(高価)なものである。』」

 現一切色身三昧を得た一切衆生喜見菩薩が、サハー世界以外の美しい天界に転生し、素晴らしい境遇を楽しんだということ。法師品の「仏陀の国土への高貴な生誕」(P.10)のことである。

 

P.194

・「『さて、そのとき、宿王華よ、その一切衆生喜見菩薩大士は、念(おも)いも新たに気持を正して、かの三昧から立ち上がった。立ち上がって次のように考えた。

『神通力の奇蹟を示して世尊への供養を行なっても、それは(自分の)身体を喜捨するには(遠く)及ばない』」

 一切衆生喜見菩薩が、汚濁のサハー世界に生まれ落ち、”正しい教え”を広めるという使命を果たす決意をしたということ。

 

・「『ところで、宿王華よ、その一切衆生喜見菩薩大士は、そのとき、沈香やトゥルシュカやクンドゥルカの(香の)樹脂を食べ、チャンバカ油を飲んだ。~このようにして、~十二年が経過した。』」

 ここでの香の樹脂や油は法華経の教えの象徴である。一切衆生喜見菩薩が教えをさらに12年もの間学んだということ。

 

・「『そのとき、宿王華よ、その一切衆生喜見菩薩大士は、この十二年がたったのち、自分の身体を天の衣で包み、香油のなかに浸して、自らの決意を下した。決意したのち、如来を供養するために、自分の身体に火をつけた。』」

 「自分の身体に火をつけ」て、その身を光り輝かせたとは、法華経の教えをサハー世界において広く伝教したということ。焼身自殺したということではない。

 

P.195-196

・「『ところで、宿王華よ、その一切衆生喜見(菩薩)の身体が輝きつづけて千二百年が経過したが、(そのあいだ、それが)消えることはなかった。~ところで、宿王華よ、~このような如来に対する供養、教えに対する供養を行なったのち、そこから死んで、まさに~日月浄明徳如来の説法(のもと)にヴィマラダッタ(浄徳)王の家に化生して再生し、(両親の)膝の上に結跏趺坐してあらわれたのであった。さて、再生するやいなや、その一切衆生喜見菩薩大士は、そのとき自分の父母に次のような詩頌で語りかけた。

 最勝なる王よ、ここは私の経行の場なのであります。』」

 一切衆生喜見菩薩が日月浄明徳如来の末法のある王家に、さらなる修行のために転生したということ。

 

P.196

・「『『母上、父上、いまでも、~日月浄明徳如来は、この世におられ、身を保たれ、時をすごし、教えを説いておられます。~』』」

 日月浄明徳如来が説いた法華経が、一切衆生喜見菩薩が転生した末法にも残っているということ。

 

・「『『だから、母上、父上、どうか私がその世尊のもとに行けますように、そこへ行って、私は再びその世尊に供養を行ないましょう』』」

 転生した一切衆生喜見菩薩が日月浄明徳如来が遺した法華経を読み、物語の中のその如来と会いたいと思っているということ。

 

P.196-197

・「『そこで、宿王華よ、その一切衆生喜見菩薩大士は、そのとき、空中へターラ(樹)の七倍の高さまで上昇し、七宝からなる楼閣の上に結跏趺坐して、かの世尊のもとに近づいた。近づいてから、かの世尊の両足を頭にいだいて礼拝し、かの世尊(のまわり)を右めぐりに七回めぐったうえで、かの世尊のほうへ向かって合掌し、かの世尊を礼拝して、次のような詩頌によってほめ讃えた。

 

 お顔が非常に美しく、(意志)堅固なる人中の王よ、あなたの光明は十方に輝いております。善逝よ、あなたに最高の供養を行ない、指導者よ、(あなたに)会うために、私はここにやってまいりました。』」

 次章の妙音菩薩品にも似たような記載があるが(P.214~215参照)、これは一切衆生喜見菩薩が法華経を読むことを通して、日月浄明徳如来の虚空会に参加したということを意味する。如来の視点に立てば、時空は意味をなさず、一切衆生喜見菩薩が生まれ変わった世界と日月浄明徳如来の世界は、同時に存在するのである。

 ちなみに、「空中へターラ(樹)の七倍の高さ(49~70m)」とは、見宝塔品の如来がその根もとで結跏趺坐する「五百ヨージョナ(約64km)」の高さの宝樹と比べると遥かに低い。これは如来と比較した菩薩の解脱の水準を示すものであろう。

 

・「『『世尊よ、あなたはいまなお(この世に)住んでいらっしゃいますね』』」

 日月浄明徳如来の法華経が末法にも現存しているということ。

 

・「『『良家の子よ、私が完全な涅槃にはいるときがきた。』』」

 見宝塔品にも類似の記載が見られる(P.34参照)。

 

P.197-198

・「『『そして、良家の子よ、お前にこの教えを委嘱しよう。また、これらの菩薩大士たち、これらの偉大な声聞たち、仏陀のこの菩薩、この世界、これらの宝玉よりなる高閣、これらの宝樹、これらの私に仕える天子たちをも、(お前に)委嘱しよう。さらに、良家の子よ、私が完全な涅槃にはいったあとの(私の)あらゆる遺骨を委嘱しよう、そして、良家の子よ、お前みずから私の遺骨に対して盛大な供養を行なうべきであり、それらの遺骨を流布させるべきであり、幾千もの多くのストゥパを建てるべきである』』」

 ここでの日月浄明徳如来の「(私の)あらゆる遺骨」とは、彼の教え、すなわち”法華経”のことである。教えと同じように委嘱される菩薩や声聞、天子たちは同じ教えについて学ぶ者たちのことであろう。日月浄明徳如来は彼の法華経を通して、一切衆生喜見菩薩に対して、自らの”弟子たち”の面倒を託し、更に教えを広げよ、というのである。

 ここでは、妙音菩薩品の浄華宿王智如来のような、法華経の”教師”がいないまま教えを広めざるを得ない状況となるのだが、この一切衆生喜見菩薩は如来無き世に転生した、”スーパー大菩薩”という設定なのかもしれない。

 ちなみに、法華経での「遺骨」の意味の解釈の仕方であるが、ある一人の如来の「遺骨」という文脈では、その如来の経典、すなわち”法華経”を意味し、多宝如来の「遺骨」という文脈ではすべての入滅した如来の集合体、すなわち11次元的な”何もない真空”と解釈するのが妥当であるように思われる。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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