法華経の注釈集 普賢菩薩勧発品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。また〔 〕は筆者が補足した部分である。)

 

P.251

・普賢菩薩

 今生で如来となるべき菩薩。菩薩が如来となるには、過去世において授記を得たのち、7回の転生が必要であるといわれるが、普賢菩薩は7回目の転生でなることができる菩薩である。普賢菩薩の一生は、如来の生涯といってよいが、厳密にいえば、自らが授記を弟子たちに与え、解脱の極致に至ったときが、如来となるときである。

 なお、小宮氏によれば、新約聖書の「弁護者(パラクレートス)」(ヨハネ書 14・15-20)と同じような存在である。

 

・東方(の世界)

 『法華経』においては、東の方角は未来(完成)を表す。釈迦のサハー世界に対する未来世が「東方(の世界)」である。別の言い方をすれば、釈迦の教えの(最)末法である。ちなみに、妙音菩薩のいる「浄光荘厳世界」も、釈迦のサハー世界のはるか東方にあるとされている(P.209-210参照)。

 

・「彼は(そこからサハー世界までの途中にある)もろもろの国土を振動させ、蓮華を雨降らせ、幾百・千・コーティ・ナユタもの楽器を奏でさせながら、~このような思慮を超えた神通力による奇蹟をあらわしながら、普賢菩薩大士はこのサハー世界に到着した。」

 この箇所の大意は、未来世で様々な存在に取り巻かれていた普賢菩薩が、『法華経』を読み、物語の中のサハー世界に釈迦と対話するためにやってきた、ということになるが、様々な衆生に取り巻かれていると言いたいのか、サハー世界にやってきたと言いたいのか、日本語として判然としない。したがって、別の訳を記しておくので参照されたい。

 

「国土が振動し、紅蓮華(ぐれんげ)を雨降らせ、幾百・千・コーティ・ナユタもの楽器を演奏させながら、菩薩の偉大なる威神力によって、菩薩の偉大なる神変(じんぺん)によって、菩薩の偉大なる神通力によって、菩薩の偉大なる威厳によって、菩薩の偉大なる三昧(ざんまい)によって、激しく燃える菩薩の偉大なる光明によって、菩薩のための偉大なる乗り物(菩薩乗(ぼさつじょう))によって、多くの神々、龍、ヤクシャ(夜叉(やしゃ))、ガンダルヴァ(乾闥婆(けんだっぱ))、アスラ(阿修羅(あしゅら))、ガルダ(迦楼羅(かるら))、キンナラ(緊那羅(きんなら))、マホーラガ(摩喉羅伽(まごらが))人間(人(にん))、人間以外のもの(非人(ひにん))たちに囲まれて、敬われていた。
 このように考えることもできない諸々の神力による奇蹟(神変(じんぺん))を用いて、”普く祝福されている人”という偉大な人である菩薩は、このサハー(娑婆(しゃば))世界に到着した。」

(植木雅俊訳、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』、岩波書店 下 P.555参照)

 

P.252

・「『世尊よ、私〔普賢菩薩〕はかの世尊の”宝玉の輝きの立ち昇る王(宝威徳上王)”如来の仏陀の国土からここにやってまいりました。』」

 小宮氏の『法華経』解釈による法師品などの理解によれば、普賢菩薩は釈迦の仏国土からやってきたと考えるのが妥当であるが、ここでは、普賢菩薩は”宝威徳上王如来”の仏国土からやってきたといっている。

 この点、小宮氏はこの”宝威徳上王如来”の仏国土を「次の人生で如来となる者たちの仏国土」であると説明している。普賢菩薩はもはや釈迦の地涌の菩薩を”卒業”して自らの仏国土を創造すべき存在であるので、あえてそのような如来の名前が用いられているのであろう。

 

・「『世尊よ、このサハー世界において、この”正しい教えの白蓮”という法門が説かれると(聞き)、それを聴聞するために、世尊のシャーキア・ムニ如来のもとにやってまいりました。』」

 普賢菩薩が『法華経』を紐解き、物語の中の釈迦のサハー世界に(想像の中で)やってきたということ。妙音菩薩品において、妙音菩薩が「この”正しい教えの白蓮”という法門を聴くためにやって」きた(P.213)ことと対応している。

 

・「『世尊よ、幾百・千ものこれらすべての菩薩たちも、この”正しい教えの白蓮”という法門を聴聞するためにやってきたのです』」

 普賢菩薩と同じような、如来となる生涯にある無数の菩薩たちも、同様に『法華経』を通して、釈迦のサハー世界の会合に参加しているということ。妙音菩薩品で「八百四十万・コーティ・ナユタもの菩薩たち」(P.214)が、妙音菩薩とともに釈迦のサハー世界にやってきたことと対応している。

 

・「『良家の子よ、実に、これら菩薩大士は、簡潔な形で説明すればすぐ(真理を)理解することのできるものたちである。しかも、この”正しい教えの白蓮”という法門は、まじり気のない真実(以外のなにものでもないの)である』」

「これら菩薩大士は、簡潔な形で説明すればすぐ(真理を)理解することのできるものたちである」とは、普賢菩薩と同様の菩薩たちが、”如来の悟り”に近い、高いレベルにある者たちであるということを意味している。

 以下は、いわば、”新任の”如来たちと、釈迦との対話となる。

 

・「~この集会に参集していた比丘・比丘尼、信男・信女たち~」

 普賢菩薩らと同じように、無数の衆生たちが時空を超えて、この『法華経』を読み、イメージにおいて”教えの会合”に参加しているということ。 

 

P.253

・「『良家の子よ、四種の特性を具備した女性は、この”正しい教えの白蓮”という法門を手中に収めよう。』」

 この箇所の「女性」について、中公版の訳注では、「ここの『女性』は、羅什訳のように、『良家の息子と娘』(善男子善女人)、または『男子と女子』であるべきである。」とある(P.292)。この箇所の意味合いについては、とくに女性に限定しているわけではなく、筆者も「男女」とするのが妥当であると考える。

 

・「『四種とは何か。~善根を植えた者となること、~』」

 ここでの「善根」とは、本来”仏”である己自身について何者かと問い、理解しようとすることである。

 

・「『~(正しい方向に)決定された人々(正定聚(しょうじょうしゅう〔じゅ〕))のなかに組み込まれたものとなること、~』」

「正定聚」とは、上述のとおりであるが、この他に「邪定聚(じゃじょうじゅ)」「不定聚(ふじょうじゅ)」という区分がある。「正定聚」が「正しい信仰をもっていて絶対にゆるがない人たち」であるとすれば、「邪定聚」は「どうにも見込みのない人たち」、「不定聚」は「善悪にふらついた人たち」ということになる(鎌田茂雄、『法華経を読む』、講談社学術文庫 P.415)。

 

・説法者たち

 小宮氏の法師品などの解説によれば、過去世で授記を得て、「(仏陀の国土への)すばらしい生誕を捨ておいて、ここ(ジャンブー州)にやってきた」(P.12)、”スーパー大菩薩”のことである。普賢菩薩は、のちに如来として、「説法者たち」を保護すると述べているのである。

 

P.254

・六本の牙のある王侯のような白象(白象王)

 普賢菩薩の乗り物として仏画に描かれ、大変有名な象であるが、「六本の牙」は、小宮氏によれば、六根清浄に通じている。六根清浄については、P.145参照。

 

・「『〔説法者のもとに菩薩の集団とともに近づき、〕さらに、かの説法者がこの法門について思索の修行に専念しているとき、この法門からわずか一句、一字だけでも見落としているようなことがあれば、そのとき、私〔普賢菩薩〕はその本の牙のある王侯のような白象に乗って、その説法者の前にあらわれて、この法門を(一字一句も)欠けるところなく復唱するでしょう。』」

 法師品にもこの箇所と大変似ている記載がある(P.18参照)。すなわち、普賢菩薩は釈迦と全く同じように説法者に字句を教えるというのである。ちなみに「復唱する」は前掲の『梵漢和対照・現代語訳 法華経』では、「(口まねで)反復させる」(同書 下 P.559)となっている。

 

・「『私〔普賢菩薩〕をみるやいなや三昧を獲得し、~〔様々な〕ダーラニーを獲得するでしょう。』」

 ここで、「〔様々な〕ダーラニーを獲得する」とは、さとりの奥義を極めるということである。

 

・「『~三七日、つまり二十一日のあいだ~』」

「二十一日」とは、釈迦が悟りを開いた後、この悟りについてどのように教え広めるか思いを巡らせた期間である(上 P.72)。ここでは、『法華経』を理解するのに必要な期間として「二十一日」が示されているが、実際には、生涯を賭けるような大変な努力が必要であると、小宮氏は自らの経験をもとに語っている。

 

P.254-255

・「『彼ら〔この法門の修行者〕に対して、私〔普賢菩薩〕はすべての衆生が見て喜ぶ(私の)身体をあらわすでしょう。』」

 この箇所は、分別功徳品の以下の記載と対応しているように思われる。

「かの仏陀の息子(仏子)がいる地上の場所、それを私は享受し、そこで私みずから経行し、そこに私自身腰をおろすであろう。」(P.135)

 つまり、普賢菩薩は、釈迦と同じように、修行者の前に姿を現すというのである。

 

P.255

・「『アダンデー、ダンダ・パティ、ダンダ・アーヴァルタニ、…』」

 普賢菩薩のダーラニー(の呪文)。サンスクリット語から日本語へ直訳した資料を見つけることはできなかったが、漢文訳の解説は容易に見ることができる。一例として以下を参照されたい。

http://www.hokkeshu.jp/hokkeshu/2_44.html

 

P.256-257

・「『また、世尊よ、この”正しい教えの白蓮”という法門が、このジャンブー州において流布して、ある菩薩大士たちのなかにあるならば、世尊よ、それら説法者(である菩薩大士)たちは次のように知るべきなのです。『普賢菩薩大士の威力によって、普賢菩薩大士の威光によって、この法門はわれわれの手中にあるのだ』と。』」

「ジャンブー州」について、法師品では”サハー世界”と同様に解釈できるが、ここでは普賢”如来”の教えが広まる世界(三千億土)と解釈すべきであろう。

 

・「『世尊よ、それらの衆生は、(私、)普賢菩薩大士の修行(普賢行)を身につけたものとなるでしょうし、~』」

 中公版の訳注には、「諸仏を敬礼」するなどの10の修行が列挙されているが(P.292)、『法華経』と向き合い、『法華経』にしか反応しなくなるような修行こそが「普賢行」であると小宮氏は説明している。

 

・「『それらの衆生は多くの仏陀のもとで善根を植えたものとなるでしょうし、~』」

 あらゆる生きとし生けるものは、真我において如来となる仏性を持っている。そのような聞き手に『法華経』を説くことは、その”内なる如来”を喜ばせることである。「多くの仏陀のもとで善根を植え」るには、そのような意味合いが込められている。

 

・「『世尊よ、この経典を書写し、受持するであろうものは、私〔普賢菩薩〕に喜びを与えたことになるでしょうし、~』」

「受持する」とは、心の中に”受け、持つ”ということである。すなわち、少なくとも何がどこに書いてあるかがわかる程度に暗記することである。また、「受持する」ことは、時折熟考することの前提となるものである。

 

・「『世尊よ、~この経典を書写する(だけ)でも、ここで死んでから、三十三天の神々の一員として生まれるでしょう。』」

 ここでは、写経することの功徳が説かれている。「三十三天」とは、存在の次元構造でいえば5次元にあたる。いわゆる”あの世(天国)”である。この箇所を別の言い方にすれば、死後に地獄(4次元以下)へは堕ちない、ということである。

 

P.257-258

・「『良家の子らよ、この法門を書写するだけでもこのような福徳の集まりがあるのだから、まして、この(法門)を教示し、読誦し、思考し、心をそそぐものはいうまでもないのです。~散乱することのない留意(作意(さい))をもって書写するであろうものには、千もの仏陀が手をさしのべるであろうし、~この世で死んでから、トゥシタ(兜率(とそつ))天の神々の一員として生をうけるでしょう。』」

 ここでは、さらに『法華経』を「教示し、読誦し、思考し、心をそそぐ」あるいは集中力をもって「書写する」ことの功徳が説かれる。「トゥシタ(兜率)天」とは、存在の次元構造でいえば7次元にあたる。すなわち、”宇宙はどのように始まったのか、自己という存在は何か”という、いわゆる”ミロクの問い”に生きるような心理レベルである。

 ちなみに、直接的には注意深く「書写する」ことのみが、この「トゥシタ天」に至る方法のように読めるかもしれないが、前後の文脈を考慮すると、「教示し、読誦し、思考し、心をそそぐ」ことによっても到達できると読むのが妥当であろう。

 

P.257

・「『そこには、かのマイトレーヤ(弥勒)菩薩大士がいて、~教えを説いているのです。』」

 小宮氏の動画では、弥勒菩薩は”かつて授記を受けた(すなわち、仏国土(9次元)からやってきた)”菩薩であると説明されていることもあるが、ここでは「トゥシタ天(7次元)」的な存在として描かれているようである。

 ちなみに、この「トゥシタ天」には内院と外院があり、菩薩である(仏縁がある)弥勒は内院に住むとされている。他方、外院は仏縁がない者たちの住む場所であり、仏縁のない現代の科学者たちは、この7次元の外院に住む存在であると考えられる。

 

・「『ですから、世尊よ、実に、私〔普賢菩薩〕の加護の力によって、この法門がジャンブー州において流布するように、世尊よ、私もまた、まずこの法門を加護するでしょう』」

 普賢菩薩が新たな如来として、『法華経』(とその受持者たち)を保護するという旨の宣言である。すでに上述したが、ここでの「ジャンブー州」は普賢”如来”の三千億土の意味である。

 

P.257-258

・「『よろしい、よろしい。普賢よ、お前が~(お前の菩薩としての)大悲に属する深い志願と、不可思議(な功徳)の一部である決心(発心)とによって、お前がみずからすすんで、これらの説法者たちに加護の力を加えるとは(まことに)よろしい。』」

 上述の普賢菩薩の宣言に対する釈迦の称賛の言葉。ここでの「発心」とは、普賢”如来”の無限の”地涌の菩薩”たちとその宇宙を生み出す創造の意志、すなわち、授記であると解釈することができる。

 

・「『だれであろうとも、普賢菩薩大士の名前を保持する良家の子たちは、シャーキア・ムニ如来にまみえたことになると知るべきであり、~』」

 普賢菩薩が釈迦自らの代弁者である、すなわち如来に等しいものであるという宣言である。

 

・「『彼らはローカーヤタ(順世外道)を愛好せず、詩書に耽溺する人々を快く思わず、芸人、格闘家、拳闘家、酒屋、羊肉商、鳥肉商、淫売宿の主人である人々を快く思わないであろう、また、このような経典を聴聞するか、書写するか、受持するか、読誦するかしたのちは、それ以外に彼らは楽しみをもたない。これらの人々は本性的に特性を具備しているものであると知られるべきである。』」

 安楽行品にも似たような記載が見られる(P.63~67参照)。すなわち、「普賢菩薩大士の名前を保持する良家の子たち」は、自ずと安楽行品の説く「正しい交際範囲」をわきまえたものであるということである。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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