(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.88
“多宝(大宝厳)”
前述したが、ここでの「多宝」とは、見宝塔品以降の「多宝如来」の多宝と同義であると考えられる。
P.89
・「かの如実の人の遺骨は広く流布して、常に人間や神々によって大いに供養されるであろう。」
ここでの「遺骨」は、存在世界の全情報を指す(「法華経の注釈集 序品」の記事参照)。すなわち、如来の教えが広まり、人々や神々によって真空の中の全宇宙のことについて大いに語られるだろうということ。
P.92
・「~すべてわれありという見解、(世界は)生ずるという見解、滅するという見解~」
ここは裏返して考えれば「空」とは何かについて参考になる箇所である。
「(世界は)生ずるという見解、滅するという見解」は、ちょうど「空」とは逆の見解となっている。「空」とは、如来寿量品に「三界とは、生まれず、死せず、消えず、あらわれず、輪廻せず、涅槃せず、真実でもなく、虚妄でもなく、あるものでもなく、ないものでもなく、ないものでもなく、このあり方でもなく、別のあり方でもなく、虚偽でもなく、真でもない…」(Ⅱ P.109)との記述があるように、否定形でしか言語的表現できないあり方である。
また、「すべてわれありという見解」は、「空」とは何かをさとること、すなわち解脱の妨げになるものである。
P.93
・「~この世では学識あるものはだれでも、説かれた意味を比喩によって(ただちに)理解するからである。」
法華経は、言葉や数式にならない真理をあえて言葉で説いている経典であるが、言語を超えたものを語る場合、表現手段として比喩を用いるしかない。そのような真理を比喩で語ることは、一つの適切な方法というよりも、唯一可能な方法であると言えよう。
P.100
・『~仏陀の知という量り知れない不思議な楽しさを、彼ら衆生たちに与えねばならない』
「仏陀の知という量り知れない不思議な楽しさ」の具体的な記載は、P.113参照。
P.100~101
・『私には知力がある、神通力があると考えて、もし(適切な)方法によらないで、これらに衆生たちに如来の知力や(四種の)おそれなき自信などを私が教え聞かせたとしても、これらの衆生はその教えによっては(輪廻から)出離することにはならないであろう。なぜならば、彼ら衆生たちは五欲の楽しみに執着し、三界の歓楽に執着し~ているからである。軒も朽ちはて、(苦悩の)炎に包まれた家にも似た三界から逃れ出ないならば、これらの人々はどうして仏陀の知を享受することになるであろうか』
釈迦は神通力を見せることによって弟子たちを教え導くことを好まなかったという。むしろ、彼らに考えさせ、行動させることによって真理へと導いた。釈迦本来の教えは決して他力本願ではない。
方便に導かれたとはいえ、自らの意思で三界から逃れ出ないならば、仏陀の知を享受することはできないとしているところから釈迦の教育姿勢が伺い知れよう。
P.102-103
・「そのばあい、シャーリプトラよ、賢い部類に属する衆生たちは、世間の父である如来を信頼する。信頼を生じてから、さらに如来の教誡に専心し、努力を傾ける。そのうちで、他から教えられ、聞き学んで、それに従おうと欲するある種の衆生たちは、みずからが完全に涅槃するための四つの聖なる真理(四聖諦)をさとろうとして、如来の教誡に専心する。彼らは声聞の乗り物(声聞乗)を求めつつ、三界から逃れ出るといわれる。それはたとえば、鹿の車を求めているだれかある子供たちが、かの燃えている家から逃れ出たようなものである。」
・「また、師なくして得る知(無師知)や(自己の)抑制や(禅定による)静けさ(止)を求める衆生たちは、みずからが完全に涅槃するために因縁(の道理)をさとうろとして、如来の教誡に専心する。彼らは、独覚の乗り物(辟支仏乗(びゃくしぶつじょう))を求めつつ、三界から逃れ出るといわれる。それはたとえば、羊の車をもとめているだれかある子供たちが、かの燃えている家から逃れ出たようなものである。」
・「さらにまた、一切知者の知(一切智)、仏陀の知、おのずからなる知(自然知)、師なくして得る知を求める他の衆生たちは、多くの人の幸福のため、多くの人々の安楽とを願い、また全衆生を完全な涅槃にはいらせるために如来の知力とおそれなき自信と(の諸徳)をさとろうとして、如来の教誡に専心する。彼らは、大きな乗り物(大乗)を求めつつ、三界から逃れ出るのであり、それゆえに菩薩大士であるといわれる。それはたとえば、牛の車を求めているだれかある子供たちが、かの燃えている家から逃れ出たようなものである。」
P.103-104
「そして、シャーリプトラよ、そのとき、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は、~ただ、仏陀の乗り物のみによって、彼らすべてを完全な涅槃に入らせるのである。」
この譬喩品では、菩薩乗・声聞乗・独覚乗とはべつに、仏陀のさとりへと繋がる仏乗があると説かれている。また、方便品では、如来は方便として菩薩乗・声聞乗・独覚乗の三種に分けて教えを説くが、真の意味で説かれるのは仏乗のみであると説かれている。
ところで、菩薩乗・声聞乗・独覚乗の三乗の関係は、方便品では、『(過去・未来・現在にわたる)十方の世界のどこにおいても、第二の乗り物が設定されるようなことはない。まして第三の乗り物につちえはいうまでもない」(P.57)と記されているように、声聞乗・独覚乗を念頭に置いた説明の仕方になっているため、やや分かりにくくなっている。
この点、宗教界と学術界は、「声聞乗・独覚乗に対して菩薩乗が一見優位にあるようにみえるが、結局は、この三者は並列関係にある」とするのが通常である。
すなわち、「〈二乗から菩薩へ〉、さらに〈菩薩から(仏乗による)”真の菩薩”へ〉という二段階の止揚によって、小乗仏教と大乗仏教の対立を乗り越え、あらゆる人の平等を説く本来の仏教の原点に還ろうと」するために、三者は平等であると説いていると見るのである(植木雅俊著 『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.127)。 この背景には、法華経成立時の仏教界における大乗仏教と小乗仏教の対立があったといえる。
他方、小宮氏は、仏教的な解釈にとらわれず、アインシュタインのような科学者を「一般の人たちに宇宙の法則性を説き生命の本当の姿、真空を理解させる人物」として”菩薩”と呼ぶ一方(小宮光二著 『釈迦が語る宇宙の始まり』、Clover出版 P.75)、菩薩乗・声聞乗・独覚乗の三乗の関係については、(肉体から離れた精神的存在を含めた)生命進化のプロセスとして説明している。
すなわち、声聞乗・独覚乗については、①如来ないし仏教との縁により解脱した人たちを「声聞」としての阿羅漢、②それによらずに解脱した人たち(例えば、宇宙誕生の謎に迫る科学者たちやスポーツや芸能などの一芸を極めた人たち)を「独覚」のとしての阿羅漢であるとして現代的に定義付け、「声聞」の延長線において、前世で如来より授記を受けて法華経を理解できる人たち、あるいは授記を受けられるように修行する①の「声聞」としての阿羅漢たちを「菩薩」と呼んでいる。また、授記と如来のさとりに向けて精進努力する道(すなわち菩薩道を)「仏乗」と呼んでいる。