(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)
中公文庫版の『法華経』では、如来神力品の後に陀羅尼品以降が続くが、学術界の見解によれば、(妙音菩薩品などの内容の重要性は別として)陀羅尼品以降は後世に付け加えられたもので、本来は、ここで嘱累品が続いていたと考えられる。全体のストーリーの流れからすると、それが妥当だと筆者も考える。したがって、陀羅尼品の前に嘱累品の注釈を書いてみたい。
P.261
・「そこで、~シャーキア・ムニ如来は、その法座から立ち上がって、かのすべての菩薩たちをひとまとめに集めて、神通力の遂行によって成就された(無数の)右手で、(それら菩薩たちの)右手をとって、そのとき、次のように仰せになった。」
ここでの「(無数の)右手」という言葉は、『梵漢和対照・現代語訳 法華経(植木雅俊訳 岩波書店)』ではあえて訳されておらず、文法的に見てあくまでも”一つの右手”と解するべきであると注釈している(同書 下 P.584参照)。また、岩波文庫版でもあえて訳されていない。ここは中公文庫版独自のかなり踏み込んだ意訳であると考える。
・「良家の子らよ、私は、数え切れぬ幾百・千・コーティ・ナユタもの劫をかけて成し遂げた、この上なく正しいこの菩提を、お前たちの手に委ね、委嘱し、託し、委託するであろう。良家の子らよ、お前たちは、(その菩提が)広くひろがり、あまねくゆきわたるようにしなければならない」
釈迦の教えの委託の言葉。法華経の前半で次々と与えられた授記によって、黙示的に、教えを広めよ、との命令を弟子たちにしていたのであるが、ここで改めて明示的にその命令がされている。
P.262
・「世尊よ、私どもは如来がお命じになられたとおりにいたしましょう。また、私どもはすべて如来たちのご命令を実行し、完遂するでしょう。世尊におかれましては、御心を煩わされることなく、安楽におすごしください」
上記の命令に対する弟子たちの誓いの言葉。この誓願によって、授記、すなわち教えの承継が完成したことになる。この後、弟子たちはあらゆる世界に転生し、無数の”地涌の菩薩”たちを育て上げることになる。
また、ここでは、声聞や菩薩という区別をせず、すべて菩薩としてこの誓いを立てていることにも注目したい。すべての弟子たちが、「声聞の乗り物」でもなく、「独覚の乗り物」でもなく、同じ「仏陀の乗り物」によって果てしない”如来への道”を歩むということであろう。
P.263
・「そこで、~シャーキア・ムニ如来は、別の世界から集まってきた、~すべての(分身の)の如来たちに、帰るようにと言って、それらの如来たちが安楽にすごすようにと、~言った。また、~多宝如来の、宝玉からなるストゥパを(地下の)もとどおりの場所に安置させ、かの~如来にも安楽にすごすように、と告げられた。」
ここでの「すべての(分身の)の如来たち」は釈迦自身の平行世界の自己である如来たちのことであると考えられる(P.29~31参照)。他方、他の世界からやってきた無限の未来仏たち(P.27~29参照)の記述がないが、彼らは入滅したすべての如来、すなわち多宝如来と同じ存在であるので省略されているのであろう。
見宝塔品で地下の世界から現れてきた多宝塔と多宝如来や、あらゆる世界から集まってきた如来たちは、もとの世界に戻るよう釈迦に告げられ、すべてはもとの「何もない真空」に戻るのである。
「思えばある、思わざればない」―釈迦の思考の中で構築された壮大な全創造世界は、釈迦が法華経を説き終えることにより、すべて無に帰すのである。
P.264
・「およそ、ものは原因より生ずるが、それらの原因をも如来はお説きになった。そして、それらの消滅をも。」
釈迦如来が、これまで法華経で無限の始まりと無限の完成(消滅)を説いたということ。