(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)
P.136
・「随喜」
ここでの「随喜」とは、「分別を持った人が法華経を読み感じる喜び」のことである(奥平亜美衣、小宮光二、『真訳 法華経』、廣済堂出版、P.179)
また、「分別を持」つとは、”如来の知”への志向を持つこと、すなわち、「この法華経を学び、自ら解脱し、この法華経を語り、人に理解させ、人を解脱させ、最終的には授記を授け、法華経の伝導を誓わせること、つまり、虚空界に招き入れるということ、それこそが宇宙の理であると理解すること」(原文のまま記載)である(同書、P.174)
P.137
・「『四百・千・アサンキェーヤもの世界に生存していて、六種の境涯に生まれた衆生たち、卵生にせよ、湿生にせよ、化生にせよ、あるいは形があるにせよないにせよ、あるいは意識があるにせよ、そのいずれでもないにせよ、あるいは足のないものにせよ、二本足のものにせよ、四本足のものにせよ、多くの足のあるものにせよ、ありとあらゆる衆生たち~』」
”ありとあらゆる衆生”の例え。「四百・千・アサンキェーヤもの世界」は漢訳では「四百万億阿僧祇世界」となっている。つまり、”数えきれないほどの無数の世界”ぐらいの意味。
小宮氏がYoutube動画でよく”阿僧祇世界の想像の範囲を超えたあらゆる衆生”という趣旨で「卵生のもの、胎生のもの~」と述べているが、この箇所をもとにしていると思われる。
ちなみに、”意識のない”あるいは”意識のあるともないともいえない(中間の)もの”は、六道輪廻の衆生ではないが、如来や”スーパー大菩薩”といった、授記により全創造世界を拡大してゆく、”意識生命体”を超越した高度な”法則生命体”を指すと考えられる。
P.139-140
・「かの施主であり、大施主である人が四百・千・アサンキェーヤもの世界において、あらゆる衆生たちを、あらゆる安楽の資具で満たし、阿羅漢の位に立たせて、福徳を生むとしよう。
他方、順次に(この法門を)聞き伝えた第五十番目の人が、この法門から一詩頌でも、一詩句でも耳で聞いて随喜するとしよう。
この後者の随喜にともなう福徳行の細目と、前者の~福徳行の細目と(を比べるとき)、後者の、~(その福徳行の細目は)前者よりもよりいっそう多いものである。』」
※筆者が改行を施した。
無数の世界にいるあらゆる衆生に、あらゆる物を施し、彼らを阿羅漢に立たせた福徳よりも、伝聞で50番目の人が法華経の教えをごく一部でも聞き、「分別」をもち、「随喜」した福徳のほうがはるかに多いというのである。
つまり、「法華経を語り伝えることより大事なことは何もない」ということである(前掲 『真訳 法華経』、P.179)。
P.140
・「『ところで、アジタよ、良家の息子にせよ、この法門を聞くために、自分の家を出て、精舎に行くとしよう。そこへ行って、立ったままにせよ、坐ったままにせよ、この法門をしばらくでも聞くとしよう。そのような人は、それだけのことで集めれれ積み重ねられた福徳の集積にもとづいて、(現在の)生存を終え、(転生した)次の生涯で次の身体を得るとき、牛車を得るであろう。』」
ここでは、「この法門をしばらくでも聞く」ことによる福徳が語られている。記載されていないが、法華経の教えを聞く福徳には、「分別」を得ることと、「随喜」することによる福徳が含まれていると考えられる。
また、「牛車」とは、裕福さの象徴である。法華経の教えを随喜するような人は、次の生涯で真理の探求が出来るように、物質面で何不自由ない境遇を選んで生まれてくるということである。