(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.245
・大声聞のカウンディヌヤ(憍陳如(きょうじんにょ))比丘
阿若・憍陳如(あにゃ・きょうちんにょ、あにゃ・きょうじんにょ)とも記される。釈迦最古参の弟子の一人。釈迦が菩提樹の下でさとりを開いたのち、鹿野苑にて最初に教えを説いた(初転法輪の)5人の比丘のリーダー的存在であった。
・「カーシャパよ、そのうち〔千二百人の自在を得たものたちのうち〕で大声聞のカウンディヌヤ(憍陳如(きょうじんにょ))比丘は、~この世において、”あまねく光輝を放つもの(普明)”という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。」
※〔 〕は筆者が補った。
カウンディヌヤに対する授記。ここはカーシャパに対して語っているのがポイントであるが、後述するように虚空会の仕組みについて彼に語るための、”方便としての授記”であると考えられる。
ちなみに、言い伝えによると、カウンディヌヤは、釈迦の初転法輪の最の5人の比丘たちのなかで最初に教えを理解した人物で、シャーリープトラやマハー・マウドガリヤーヤナが釈迦教団に入るとすぐに、後輩となる彼らを慮って、山林僧の生活に入ったという。おそらく、彼もまた、過去に授記を得た”スーパー大菩薩”であったのであろう。
・「カーシャパよ、そこには、この同じ(普明という)名前をもつ五百人の如来がいるであろう、それで、五百人の偉大な声聞たちが、(順に)ひきつづいて、この上ない正しい菩提をさとり、すべてのものがみな普明という名前(の如来)となるであろう。」
非常に難解な箇所である。文理解釈的に普通どおり読めば、「500人の弟子たちがカウンディヌヤにつづいて順番に普明という名の如来になる」ということになるが、これでは、なぜ同じ名前で順番に如来にならないといけないのか意味がわからない。
ここで、小宮氏の解釈による見宝塔品の理解が必要となる。見宝塔品では、釈迦が眉間から東方に光を放つと、①授記で繋がった無数の未来仏が2・3人の菩薩を引き連れて釈迦の周囲に参集する。そして、その後に、②釈迦自身の三千世界(平行世界)の分身である無限の如来が釈迦のもとへ集まってくる。この①・②の2種類の仏陀たちが釈迦のまわりを取り囲み、虚空会を構成する。
この見宝塔品の虚空会の構成と照らし合わせると、前半の「同じ(普明という)名前をもつ五百人の如来がいる」とは、②の釈迦自身の分身である如来が集まっている状態を表していると理解できる。また、後半の「五百人の偉大な声聞たちが、(順に)ひきつづいて、~普明という名前(の如来)となる」とは、②の無数の分身を伴った500人の如来たちが、①の未来仏のように順々の授記で繋がって虚空会を構成していると解することができる。すなわち、「500人の分身を持つ如来が、同じ名前で次々と如来になる」ということである。
一見すると、無理な読み込みのようにも思えるが、小宮氏の見宝塔品の理解を踏まえると、このように読むのが打倒であると思うし、あくまでも推測の域を出ないが、釈迦自身がグリドラクータ山で実際に語った法華経の教えもこのような趣旨であったのではないかと思う。
P.246-247
・「さらに、そこにいる菩薩たちはきわめて勤勉であり、すばらしい天の乗り物に乗りこんで、逍遥しながら考察し、清浄な戒を保ち、常に善行に励む。
彼らは両足あるものの最高者の教えを聞き、常に他の(仏陀の)国土をも歴訪し、幾千もの仏陀を礼拝して、彼らに広大な供養をささげる。
そのときまた、彼らは一瞬にして、(自分たちの)この指導者、(普)明という、人中の最高者の国土に帰ってくることができるであろう。~
かの如実の人の正しい教えが消滅したとき、そのとき、人間も神々も苦悩するにいたる。」
カウンディヌヤの仏国土についての描写。存在の次元構造の9次元を表していると考えられる。9次元は、法師品の”輝ける仏国土”があるとされる存在の精神領域である。8次元以下で観念(イメージ)できる思考できるのは、一つの人格ないしキャラクターの全平行世界(三千世界)の範囲が限界であるのに対し、9次元の思考範囲はその外側の領域(阿僧祇世界)に及ぶ。すなわち、9次元で想像できる範囲は8次元の三千世界をはるかに超えているということである。
この9次元の思考範囲は、薬王菩薩や妙音菩薩に象徴される”スーパー大菩薩”が3次元に肉体をもった存在として出生する際に「(自由に)生誕を選ぶ力」(Ⅱ P.12、現一切色身三昧)として現れる。
この点について小宮氏は動画で「卵生のもの、胎生のもの、脚のあるもの、無いもの、意識のあるもの、無いもの…」(Ⅱ P.137参照)などと語ることが多い。
この「(自由に)生誕を選ぶ力」(現一切色身三昧)によって、”スーパー大菩薩”は「(仏陀の国土への)すばらしい生誕を捨ておいて」(Ⅱ P.12)、正しい教えを広めるという使命のために、3次元世界に肉体を持つ存在として出生するのである。
ちなみに、ここで、「天の乗り物」とあるのは、化城喩品と同じく、仏陀の教えのことである。
また、「常に他の(仏陀の)国土をも来訪し」とあるのは、三千世界を超えて、8次元では想像もできないようなイメージの世界を転生というかたちで旅することができるということであり、それは9次元のみならず、10次元的な虚空会のさまざまな仏国土をも見ることができるということであろう。
さらに、「一瞬にして~帰ってくることができるであろう」とは、3次元的な物質世界と9次元的なイメージの世界を一瞬で行き来することができるということであろう(ここでの「一瞬」とは、物理的限界のない仏国土での時間感覚で表現されたものであり、実際には3次元世界での長い生涯を経験せざるを得ないが)。
P.247
・「これら(五百人の比丘)は、次々にかの普明という同一の名前をもつ、ちょうど五百人の指導者たちであり、人中の最高者である勝利者にとって(後継者として)あらわれるであろう。
P.245の「~それで、五百人の偉大な声聞たちが、(順に)ひきつづいて、この上ない正しい菩提をさとり、すべてのものがみな普明という名前(の如来)となるであろう。」と同趣旨である。
・「(彼ら五百の仏陀の)すべてにとって、(国土の)光輝(荘厳)は(相互に)相似たものであり、神通力も、また仏陀の国土も、(声聞や菩薩の)一群も、および正しい教えも同じく相似たものであり、正しい教えの存続も等しいであろう。
私が先に人中の最高者である普明(如来)について称賛したような名声が、そのとき、神々をも含む世間において、(五百の仏陀の)すべてに同様にあるであろう。」
P.245の「カーシャパよ、そこには、この同じ(普明という)名前をもつ五百人の如来がいるであろう~」と同趣旨である。
P.247-248
・「私がいま世間全体に教えているように、ちょうどそのように、彼ら(世間の)幸福を
願う慈愛深き人たちは、順々に、それぞれ他のものに、「このものは私のすぐあとで(普明如来と)なるであろう」と予言するであろう。
カーシャパよ、実に、いまそこで、お前は自在を得たこれら満五百人のものと、また私の他の弟子たちとを、このようなものであるとみなすべきである。」
ここで、釈迦はカーシャパに対して虚空会の成り立ちかたについて説明している。ここでの「(世間の)幸福を願う慈愛深き人たち」は、如来となった500人の弟子たちのことである。また、「自在」とは、(菩薩レベルの)”観自在力”(全創造世界のあらゆる事象の本質を如実に見る力、この力が完成すれば如来となる)のことである。
P.250
・「『私どもは生きることに苦難が多いので、~このように限られた知識で満足してしまったのですが、~『比丘たちよ、お前たちはこれを(真の)涅槃だなどと思ってはならない。~お前たちがいま(真の)涅槃であると思っているものは、説法において語られた~私の巧みな方便にほかならないのである』といま教えていただいたのです。そして、私どもは世尊にこう教えていただいたうえで、いま、この上ない正しい菩提にいたると予言していただいたのです」
授記を得た500人の阿羅漢たちの言葉。信解品のカーシャパら4人の声聞たちの決意の表明と同趣旨(P.142~147参照)。声聞のさとりが真の涅槃ではないことを知らされ、授記を得た今、ようやく仏の涅槃への長い道のりのスタートラインに立ったということである。
P.252
・「世尊よ、それ〔大金持ちが、彼の親友である貧しい旅人が路銀に困らぬよう、彼が知らぬ間に彼の衣服の端に宝石を縫い付けてくれたとの例え〕と同じように、私どもはこのような過去の誓願(が、私どもにあることを)知らないでいるのです。」
※〔 〕は筆者が補った。
同じく、授記を得た500人の阿羅漢たちの言葉。ここでの「過去の誓願」は、過去世において、声聞の涅槃でもなく、独覚の涅槃でもない、仏陀の涅槃に至るという誓いのこと。それを忘れて、彼らは、これまで阿羅漢の涅槃に満足していたということである。