法華経の注釈集 五百弟子受記品(その1)

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)

 

P.236

・尊者プールナ・マイトラーヤニー・プトラ(富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし))

釈迦の十大弟子の一人で、説法第一。十大弟子のなかでは最古参である。言い伝えでは、釈迦の教えを広めるために、死をも厭わない覚悟で遥か遠方の国々にまで旅したという。

 

P.238

・「そこでそれらの仏陀・世尊たちの教誡のもとで、彼は正しい教えを身につけたのであり、それはちょうど、いま私のもとで(そうで)あるのと同様である。そして、彼はどこでも説法者たちの第一人者であったし、どこでも空性の会得者であったし、どこでも(四種の)明晰な知(四無礙智)を獲得していたし、どこでも菩薩の神通を会得し、きわめて的確に教えを説くもの、一点の疑念もなく教えを説くもの、清浄な教えを説くものであった。」

釈迦がプールナの過去世について語った部分。本章より前の譬喩品にあるシャーリープトラの過去世についての記述と比較してほしいが(P.85参照)、菩薩としての成熟の度合に各段の差がある。これはプールナが過去世においてすでに授記を得た「スーパー大菩薩」であったということを意味していると考えられる。

ところで、このプールナと本章後半で登場するカウンディヌヤ、次章の授学無学人記品に登場するアーナンダとラーフラは、過去世においてすでに授記を得た「スーパー大菩薩」として描かれている。

それを裏付けるように、如来としての寿命に、彼らの前に登場した5人の弟子たちとは顕著な差がある(下記の表参照)。

釈迦の弟子たち 授記を受ける章 如来としての寿命 対応する次元構造
1 シャーリープトラ 譬喩品 12中劫 3次元
2 マハー・カーシャパ 授記品 12中劫 4次元
3 スブーティ 授記品 12中劫 5次元
4 マハー・カーティヤーヤナ 授記品 12中劫 6次元
5 マハー・マウドガリヤーヤナ 授記品 24中劫 7次元
6 プールナ 五百弟子受記品 量り知れず、数えきれない劫の長さ 8次元
7 カウンディヌヤ 五百弟子受記品 6万劫 9次元
8 アーナンダ 授学無学人記品 百・千・コーティ・ナユタ劫 10次元
9 ラーフラ 授学無学人記品 同上 11次元

 

・「また、彼はそれら仏陀・世尊たちの教誡を奉じて、寿命の尽きるまで純潔な生活(梵行)を行ない、あらゆるところで、(真に)”教えを聞くもの(声聞)”であると思われたのである。実に、彼はこの(真に声聞であると思われるという)方便によって、無量にして無数の百・千・コーティ・ナユタもの衆生たちに利益をもたらし、量り知れず、数えきれない衆生たちをこの上ない正しい菩提に成熟させたのである。」

「(真に声聞であると思われる)方便」という表現が非常に興味深い。これは、言い換えれば、”大菩薩であるのに方便として声聞のふりをしていた”ということになるであろう。

プールナは、この後の描写から、過去に授記を受けた”声聞のふりをした菩薩”であったと思われるが、授記を受けたあとに無限の平行世界に生まれ変わって”声聞のふりをする”方便によって、衆生たちの心に寄り添っていたのであろう。

 

・「また、あらゆるところで衆生たちに対する仏陀の(教化の)仕事を助け、あらゆるところで自分のいる仏陀の国土を浄め、衆生たちを成熟させることに専念した。」

「スーパー大菩薩」の”仏陀の補佐役”としての姿が描かれている箇所である。大菩薩たちはこのようにして、数多くの仏陀・世尊たちを喜ばせるのであろう。

 

・「比丘たちよ、かのヴィパシィン(毘婆尸(びばし))をはじめとする(過去の)七人の如来たち、私がその七番目にあたるのだが、これら(過去仏)のもとでも、彼(プールナ)こそは説法者たちの第一人者であったのである。」

仏教において”7”という数字は重要である。如来となるためには、菩薩として7回の転生が必要であるといわれる(如来としての人生も、授記を与えるまでは、厳密に言えば”普賢菩薩”としての人生である)。

小宮氏によれば、それを裏付けるかのように、アガスティアの葉の予言においても、如来としての人生は7回目の転生であることが示されるという。

ちなみに、有名な”七生報国”という言葉もここから来ているのではないだろうか。

 

P.239

・「彼はこのような菩薩の修行を成就して、量り知れず、数えきれない劫ののちに、この上ない正しい菩提をさとるであろう。(こうして、)”教えの光明(法明)”という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。」

上記はプールナの授記についての記載であるが、彼の授記はこれまでの5人の声聞たちの”仏となる予言”とは異質なものであると筆者は考える。なぜなら、彼は、すでに授記を得たと思われる、”声聞のふりをした菩薩”であるからである。おそらく、このプールナへの授記は、四種の会衆に優れた菩薩とはどういうものかを示すために説かれたものであり、彼に対する授記は、いわば、”方便としての授記”であろう。

このことは、前章の化城喩品の16人の菩薩に対する大通智勝如来の授記にも言えるのではないかと思う。

 

・「さらにまた、比丘たちよ、そのとき、(この仏陀は)ガンガー河の砂の数に等しい三千大千世界を一つにして仏陀の国土とするであろう。(この仏陀の国土は)~七宝づくりの楼閣で満たされているであろう。神々の天の乗り物は(地表に接近して)虚空に浮かび、神々も人間を見、人間も神々を見るようになろう。」

プールナの仏国土の情景。存在の次元構造の8次元を表していると考えられる。

「七宝づくりの楼閣」とは、多宝塔のことであり、仏国土が多宝塔で満たされているとは、法明如来の弟子たちが、多宝塔・多宝如来がなぜ現れるのか(現代科学的にいえば、統一場理論について)、自ら考えたり、他の人々に解説したりしているということである。

また、法明如来の弟子たちが、自らの弟子たちに”多宝塔とは何か”について説き明かしていると考えれば、この箇所は仏国土について語りながらも、虚空会についても語っているともいえる。

なお、「人間を見、人間も神々を見る」とあるが、8次元的な世界においては、もはや、人間と神々の区別もあいまいなものとなっているということであろう。

 

P.239-240

・「さらにまた、比丘たちよ、そのときは、この仏陀の国土にはもろもろの悪も(その結果の悪しき境遇も)なく、女性もいなくなるであろう。」

上記に引き続き、プールナの仏国土についての描写である。諸悪と同様に、「女性もいなくなる」と書かれている点については、この箇所は浄土系の思想を割り込ませて後世に挿入されたものであるという説があるが(『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.156-157)、筆者は少し異なる捉え方をしている。すなわち、女性がいないと同時に、対概念である男性もいない、言い換えれば、8次元的な世界においては、もはや、男女の区別が溶解するように消失してしまっているのではないかと考える。

ちなみに、同様の表現が、後の薬王菩薩本事品や観世音菩薩普門品にも見られるが、同じようなことが言えるのではないかと思う。

 

P.240

・「また、そのすべての衆生たちは自然に発生したもの(化生)で、純潔な生活を送るものであり、その身体は心でできている~。

さらにまた、比丘たちよ、そのときその仏陀の国土にいる衆生たちの食糧は二種(のみ)であろう。二種とは何か。すなわち、”教えの喜び”(法喜食)と”禅定の喜び”(禅悦食)とである。」

ここもプールナの仏国土についての描写である。8次元的な世界においては、もはや物質的な身体条件を離れており(だからこそ、生殖活動に必須である男女の区別も不要となる)、物質的な栄養摂取も不要となっているということである。その上で、”教えの喜び”と”禅定(瞑想)の喜び”という心の糧のみが食糧となっているということである。

 

P.240-241

・「その正しいさとりを得た尊敬さるべき世尊の法明如来が、完全な涅槃にはいられたあとでも、その正しい教えはきわめて長くつづき、その世界は宝玉でできたストゥパ(塔)で満ちあふれるであろう」

法明如来が入滅した後においても、彼から授記を得た弟子たちが、説き明かせば多宝塔が現れてくる正しい教え、すなわち法華経を説き広めるだろうということ。

 

P.241

・「比丘たちよ、次のことについて私の言うことに耳を傾けよ。(すなわち)巧みな方便をよく学習した私の息子がどのようにして修行を行ない、どのようにしてこの菩提への修行を行なったかについて。

これら衆生たちが劣等なものを願い志向するだけで、広大な乗り物に強い恐怖をいだいていることを知って、それゆえ(私の息子である)これらの菩薩たちは、(方便として)声聞になったり、(独覚としての)個別の菩提をあらわして見せたりして、

幾百とも知れぬ多くの巧みな方便を用いて、多数の菩薩たちを成熟させるのである。そして、彼らは『われわれは声聞にすぎないのだから、われわれは最もすぐれた最高の菩提からは遠く離れている』と、こう語る。

実に、幾コーティもの衆生が、彼らを見習ってこの修行を学習し、(大乗において)成熟するようになる。劣等なものを願い志向し、きわめて怠惰であった彼らもすべて、やがてついに仏陀となる。」

ここは、プールナのような”声聞のふりをした菩薩”たちの”菩薩の方便”について説明した箇所である。ここでの「劣等なもの」とは、信解品の「芥溜(こえだめ)にも似た下等な多くの教え」(P.134)と同義である。そのような下等な教えを志向する衆生たちに対して、「私も皆さんと同じように、最高の菩提なんてわかりませんから」と言って、彼らの気持ちに寄り添ってみせるというのである。そして彼らに声聞として「個別の菩提」を示すなどして、仏陀の知に少しずつ誘導してゆくというのである。

 

P.242

・「また、彼らは人知れず(菩薩としての)修行を行ないながら、『実にわれわれはなすべきことのわずかしかない声聞である』と言い、あらゆる死と(再)生とを厭ってみせながら、実は、(すすんで)自分のいる国土を浄化する。

彼らは自分が愛着(貪)をいだき、憎しみ(瞋(しん))をいだき、迷い(痴)をもつことをもあらわして見せるし、衆生たちが誤った見解に執着しているのを知りながらも、彼らの見解に頼ってみせもする。」

さらに、”声聞のふりをした菩薩”たちは「人知れず(菩薩としての)修行を行な」うという。次章の授学無学人記品に登場する”密行第一”ラーフラのあり方に通じる行ないである。

また、「(すすんで)自分のいる国土を浄化する」とは、自らの師の教団の同輩たちを、自らの貪瞋痴を示したり、相手の考えをあえて頼るふりをするなどして相手の心に寄り添いながら、仏陀の教えで菩薩として教化するということだろう。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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