法華経の注釈集 授学無学人記品

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)

 

P.236

・尊者アーナンダ(阿難)

釈迦の十大弟子の一人。多聞第一。釈迦のそば近くで仕えながら多くの教えを記憶したという。釈迦の入滅後はその記憶をもとにして、マハー・カーシャパとともに第一回仏典結集を主宰した。

 

・尊者ラーフラ(羅睺羅(らごら))

釈迦の十代弟子の一人。密行第一。出家前の釈迦の実子(長子)でもある。

 

P.255

・「また、なお学習を要するもの(有学)と学習をなしおえたもの(無学)の声聞たちのなかの二千人以上の他の比丘たちも、~(アーナンダなどと)同じ考え、すなわち、『仏陀の知はまさにこのようなものであって、私たちもぜひとも、この上ない正しい菩提への予言を受けたいものだ』という思いにふけりながら、佇んでいた。」

ここでの『仏陀の知』とは、釈迦が言葉で語る虚空会についてのことである。2,000人の比丘たちは、釈迦が前章の”500人の比丘たちへの授記”として語った虚空会のしくみについて(P.245~246参照)感嘆し、自分たちも授記を得て未来仏として虚空会の一員になってみたいと思っているのである。

 

・「『アーナンダよ、お前は未来世において、”大海のごとき智慧をもって遊戯する神通のある(山海慧自在通王)という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。』」

アーナンダに対する授記の記載である。

 

P.256

・「『また、その正しいさとりを得た尊敬さるべき世尊の山海慧自在通王如来の寿命の長さは、量り知れない劫であろうであろう、事実、その世尊の寿命の長さは、百・千・コーティ・ナユタという数えきれない劫であって、計算によってその劫の終末に到達することは不可能である。』」

山海慧自在通王如来の仏国土は、存在の次元構造の10次元を象徴していると考えられる。そこは本来、虚空会の存在が認識できる世界であり、時空の概念を完全に超えた場である。如来の寿命の長さが「量り知れない劫」であるとは、山海慧自在通王如来を中心とした融通無碍の如来たちの世界(虚空会)の永遠性を表現したものであろう。

 

・「十方にいる~百・千・コーティ・ナユタもの仏陀たち」

すべての平行世界の無限の如来、すなわち多宝如来のことである。見宝塔品によれば、山海慧自在通王如来もまた、法華経を説き明かすことにより、多宝塔とともに現れた多宝如来にほめたたえられるであろうということになる(ⅡP.24~25参照)。

 

・「比丘の僧団よ、私は告げよう。彼の教えの保持者である大徳アーナンダは六十・コーティもの善逝たちを供養したのち、未来世において勝利者となろう。」

ここでの「供養」とは、法華経を広めるということである。

 

P.257

・「そのとき、この集会にいた、新たに(仏陀の)乗り物によって出で立った八千人の菩薩たちに、こういう考えが浮かんだ。

『そもそも、私たちは菩薩についてさえも、このように広大な予言をいまだかつて聞いたことがない。ましてや、声聞たちについてはいうまでもない。このばあい、いったい、(かかる広大な予言が声聞に与えられるのは)いかなる理由、いかなる因縁があってのことであろうか』」

8,000人の”駆け出し”(新発地)の菩薩たちによる、「このように広大な授記は初めて聞いた」という驚きの反応である。

ところで、アーナンダもまた、前章で登場したプールナと同様に”声聞のふりをする菩薩”として描かれていると考えられる。なぜなら、この後の部分で説かれているが、アーナンダは釈迦と同時に正しい菩提へと心を起こしつつも、教えを多く聞き、他の菩薩たちのために「正しい教えの蔵の保持者」(P.258)となったという”大菩薩さながら”の過去世を持っていたからである。この部分はアーナンダと釈迦の過去世での縁の説明の導入部分となっている。

 

P.257-258

・「『良家の子たちよ、(かつて)”教えの天空に登れる王(空王)”という、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来の面前で、われわれ、私とアーナンダとは、同じように、同一刹那、同一時刻に、この上ない正しい菩提に向かって心を起こしたのである。そのばあい、良家の子たちよ、このもの(アーナンダ)は、いつもたえず、(教えを)多く聞くことに専念し、一方、私は精進努力に専念したのである。そういうわけで、私はきわめて速やかにこの上ない正しい菩提をさとったのであり、この大徳アーナンダは、菩薩たちに(菩提を)完成させるために、仏陀・世尊たちの正しい教えの蔵の保持者となったのである。良家の子たちよ、これがこの良家の子(アーナンダ)の誓願なのである』」

ここでは、釈迦とアーナンダとの過去世の縁について描かれている。彼らは同時に正しい菩提へと心を起こしたのであるが、釈迦がさとりを得るための精進努力に専念する一方、アーナンダは他の菩薩たちのために教えを聞くことに専念したため、正しい菩提への到達について釈迦に後れをとってしまったというのである。また、だからこそ、アーナンダは「広大な予言」を受ける資格があるというのである。

なお、釈迦はここではアーナンダを声聞としてではなく、菩薩として見ていると思われる。なぜなら、アーナンダに対しても菩薩への呼びかけである「良家の子」という表現を使っているからである。

 

P.259

・「『大徳ラーフラよ、お前は未来世において、”七宝づくりの紅蓮の上を闊歩して歩くもの(踏七宝華(とうしちほうげ))”という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となり、~』」

ラーフラに対する授記。

 

・「『(すなわち)お前は十の世界を構成する原子の塵の数に等しい、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちを恭敬し、~ちょうどいま私の(長子)であるように、いつでもそれらの仏陀・世尊たちの長子となろう。』」

ラーフラは、”密行第一”と称されるように、釈迦の実子でありながら人知れず行なった正しい修行によって後世に知られている。その”密行”で培った善根により、多くの仏陀たちとの親子という特別な関係を未来世において得るということである。

 

・「『さらにまた、大徳ラーフラよ、ちょうど、かの正しいさとりを得た尊敬さるべき世尊の山海慧自在通王如来に、(量り知れない寿命と)あらゆる種類の功徳をそなえた仏陀の国土の功徳の光輝があるであろうように、この正しいさとりを得た尊敬さるべき世尊の踏七宝華如来にも、ちょうど、そのようなあらゆる種類の功徳の完成があろうであろう。』」

ラーフラが仏陀となる世界は存在構造の11次元を象徴していると考えられる。

それは、「量り知れない寿命」があることと、「あらゆる種類の功徳の”完成”がある」(その前の山海慧自在通王如来が仏陀となった世界(10次元)は「功徳を”備えた”という表現にとどまっている)ことから推測される。ここでの「功徳の完成」は、仏陀が最終的に到達するという滅尽定のことではないだろうか。

 

P.259-260

・「『ラーフラよ、お前は、その正しいさとりを得た尊敬さるべき山海慧自在通王如来の長子にもなるであろう。そのあとで、お前は、この上ない正しい菩提をさとるであろう』」

上述したように、ラーフラは未来世において多くの仏陀のもとで長子として生を受けると予言されたが、山海慧自在通王如来(アーナンダ)の長子にもなるというのである。

 

P.260

・「ラーフラのこのような(菩薩としての)修行は、人々にはそれとはわからない(密行)が、(菩薩として立てた)彼の誓願を私はよく知っている。世間の友人(仏陀)を賛美して、「私は実に如来の息子なのです」と言う。

この世における私の実子であるラーフラのもつ功徳は、量り知れないコーティ・ナユタであって、それらの量は決して量りられない。こうして、実に、このものは、(大乗の)菩提への立場において確立されたのである。」

前章のプールナと同じように、ラーフラもまた人知れず菩薩としての修行を行なう”声聞のふりをした菩薩”であった。

ところで、彼の言った「如来の息子」には二つの意味が込められているように思う。その一つは、如来の教えを相続しようとする菩薩としての意味であり、もう一つは、サハー世界でのゴータマ・シッダールタ王子(後の釈迦)の実子であるという意味であるが、釈迦の実子として、あえて「私は実に如来の息子なのです」というのは相当な覚悟が必要であったと思う。

世間には、「親の七光り」という言葉がある。偉大な父母を持つ人は、親と比較されるという重圧にさらされるし、場合によっては、やっかみを受けたり悪く言われたりもする。

そのようなある意味厳しい環境のなかで、後世に名が残るほど密行を行なったということは、かれもまた大菩薩であったことの証であると言えるかもしれない。

 

P.261

・「『アーナンダよ、これら二千人の声聞たちはすべてみな、等しく菩薩の修行を達成するであろう。そして、~(輪廻における)最後の身体において、同じ刹那、同じ瞬間、同じ時刻に、集会の同一の時刻に、十方のそれぞれ異なった世界にある各自の仏陀の国土において、この上ない正しい菩提をさとるであろう。彼らは”宝玉をもとどりのなかにもつ王(宝相)”という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。彼らの寿命の長さはちょうど一劫であろう。そして、それらの仏陀の国土の功徳の光輝はそれぞれ等しいものであろう。声聞の集団も菩薩の集団も平等に、彼らの完全な涅槃も平等に、彼らの正しい教えも平等に存続するであろう』」

2,000人の比丘たちに対する授記。「同時に、同じような仏国土の仏陀になる」という記載が意味深であり、単なる「すべての者は仏陀になる」という仏教的な平等性をといたものとは思えない。おそらく、後の如来神力品にあるような、融通無碍に広がる無限の如来たちの世界について語っているのではないだろうか。

そこには、もはや師と弟子の区別はないが、この点については新約聖書にも対応するような記載がある。

イエスは”最後の晩餐”のおりに、弟子たちの足を自ら洗い、自分がこの世からいなくなった後もそれぞれの足を洗うように、「わたしがあなた達を愛したように、互いに愛せよ」(ヨハネの福音書15・12-17、塚本 虎二訳、『新約聖書 福音書』、岩波文庫 P.337) と命じた。そして、弟子たちを、僕ではなく、”友人”と呼んだ(同上)。イエスと11人の弟子たちも最終的には師と弟子の区別がない如来たちとなるのであろう。

なお、宝相如来の名前の由来となっている”もとどりのなかにある宝玉”とは、如来たちが説く最高にして最後の法門、すなわち法華経のことである(安楽行品、Ⅱ P.77~78参照)。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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