(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.8
・「オーン、すべての仏陀と菩薩たちに敬礼したてまつる。すべての如来、独覚、聖なる声聞たちに、また過去・未来・現在の菩薩たちに敬礼したてまつる。」
法華経の冒頭の書き出し。小宮光二氏はこの文章を読み、この経典に創造世界の真理のすべてが書かれていると直観的にわかったと語っている。
「すべての仏陀」や「過去・未来・現在の菩薩たち」という表現にあるように、法華経は時空を超越した真理を説いているものである。
・「このように私は聞いた。」
漢文では「如是我聞」となる。法華経以外の様々な仏典にも見られる書き出しの表現。仏典においては、「師はこう語った」と言わないのが特徴である。これは、読み手のレベルにより、様々に理解されることが容認されているということであろう。
ちなみに、読み手(聴き手)のレベルによって仏の教えの理解の深さが異なることは、後の「薬草喩品」でくわしく語られている。
・すべての心の自由の最高の極致(波羅密多)
菩薩行の完成のこと。「波羅密(多)」は、とくに、「六波羅密(多)」(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若(智慧))を指すことが多い。
なお、小宮氏によれば、すでに授記を得て、法華経に帰依した菩薩(スーパー大菩薩)は、「智慧」のみでよいと天台大師(智顗)が語っているという。
P.9
・「また、そこには八万の菩薩たちが同席していた。」
「八万の菩薩」とは、未来で釈迦の説くこの法華経を読む無数の菩薩たちを指す。
・ダラニー(陀羅尼)
陀羅尼には様々な意味があるが、ここでは、真理の言葉を語る力ぐらいの意味である。
P.10-11
・「それらの菩薩は、”妙にして吉祥な(文殊師利)”という(法の)王子となれる菩薩大士、”自在に観察する(観世音)”、~”薬の王”、~”友愛ある(弥勒)”という菩薩大士、~である。
また、”すぐれた守護者(颰陀婆羅(ばっだばら)”をはじめとする十六人の善き人々(すなあわち菩薩)たち~であって、以上をはじめとする八万の菩薩がともにいた。」
ここで挙げられている数々の菩薩の名は、具体的な人名というよりも、形容詞的な呼び名である。すなわち、「~のような菩薩」ぐらいの意味である。
また、「十六人の善き人々」は人の精神の働きの象徴であると考えられる。
P.11
・「また、神々の王シャクラ(帝釈)とその従者である二万の天子たちが同席した。それらの天子は、~これらをはじめとする一万二千のブラフマー神に属する天子たちである。」
ここでの「神々の王シャクラ(帝釈)とその従者である二万の天子たち」は、上記の「十六人の善き人々」同様、人の精神の働きの象徴であると考えられる。
ちなみに帝釈天は、ブッダガヤで悟りを開いた釈迦に、この世界で真理を説くよう懇願した神である。
また、四大(天)王(増長大王、広目大王、持国大王、多聞大王)は力で仏法を護る4人の神々(4次元的存在)。人間存在としては、軍事・警察・司法関係者か。
さらに、自在天はシヴァ神と同じで、梵天(ブラフマー神)は無限の平行宇宙を表している。
・「また、幾百・千・コーティもの多くの従者をつれた八龍王も同席した。」
八龍王は4次元的存在の象徴であると考えられる。ちなみに、後の提婆達多品に登場する龍女は、この八龍王のうちのサガーラ龍王の娘である。
P.12
・キンナラ(緊那羅)
歌の神々。人間存在としては、ミュージシャンのようなものたちか。ここに登場するキンナラやおなじく音楽神であるガンダルヴァ(乾闥婆(けんだっぱ))といった神々は3次元世界の利益を表すものである。
・アスラ(阿修羅)
帝釈天に歯向かったと言われる戦闘神。ここでは、怒りの感情をあらわすもの。
この後のガルダ(迦楼羅(かるら)、金色の大神鳥)にいたるまで、様々な神々が登場するが、これらの神々は人の精神の所作用を象徴する4~7次元的な存在でもあり、数々の菩薩たちと併せて総体的に人の精神構造を表現しているともいえる。
・”偉大なる説示(無量義)”と名づけられる法門の経
法華経の前半(弟子たちに授記を授ける部分、いわゆる迹門)までを意味する。
なお、既存の仏教界では、無量義経が偽経であるか否かの論争があるが、この論争は鳩摩羅什による漢文訳における議論であるので、サンスクリット語からの直接の現代日本語訳に基づく本注釈では「”偉大なる説示”と名づけられる法門の経」の真贋については述べない。
・”限りなき説示の基礎(無量義処)”という名の三昧
法華経の後半(「従地涌出品」以降の部分、いわゆる本門)で示されている仏ないし全宇宙の在り方を意味する。ここは、授記を受けた如来の弟子たちが、未来世において「従地涌出」の菩薩として、彼らが属する各々の世界の法華経を読むことにより理解する部分である。
P.13
・「そのとき、実に、その集会のなかには、~人間や人間以外のものが集まっていた。~これらのものが従者もろともに世相を見上げて驚異の念をいだくとともに、前代未聞の思いをして、大きな喜びに打たれた。」
上記で教えの会合に同席している様々な存在について注釈したが、その存在たちが会合に同席している様のまとめ的な記述。
既に上記の「アスラ」の部分で述べたように、一見、4~7次元的な様々な存在が集まっている風景を描いているように見えるが、実は、読み手の精神構造のすべてを表している。
なお、「法師品」の冒頭でも、薬王菩薩が同様の光景を見ている。薬王菩薩は弥勒菩薩が成長(如来の教えの会合、すなわち、「虚空会」が何であるかについて理解)した姿である。
・「そして、そのとき、世尊の眉間の毛の渦(白毫)から一条の光明が放たれた。その光は東のほうに向かって一万八千の多くの国土に流れ、その光でそれらすべての仏陀の国土-アヴィーチ(阿鼻)大地獄から最高の存在界(有頂天)にいたるまで-がはっきりと見え、~」
釈迦如来が叡智の光ですべての仏陀の国土を認識したということ。なお、東の方向は未来(授記による法華経の拡大プロセスの完成側)を象徴している。
また、小宮氏はこの部分について、一見、如来が一条の光を放っているように見えるが、実は、弥勒に光を放たせ、無限の平行宇宙を見せていると説明している。すなわち、「すべての仏陀の国土は弥勒が認識した世界ということになる。
なお、法華経全体では、この箇所以外にも「見宝塔品」と「妙音菩薩品」で釈迦が一条の光を放っているが、この箇所では、まだ教えの会合は虚空会(そこでは無限の釈迦の分身と無限の未来仏が登場している)になっていない。
P.13-14
・「それらの国土には比丘・比丘尼、信男・信女の修行者たちがいて、瑜伽行を修め、その結果を得たものもあれば、まだ得ないものもあるが、彼らもまたすべて見えた。」
様々な3次元世界の如来のサンガ(教団)で修行に励む男女の集まりが見えたということ。
P.14
・「また、それらの仏陀の国土で仏陀・世尊たちが完全な涅槃(般涅槃)にはいられるのであるが、それらもすべて見えた。」
如来が授記を授け終え、滅尽した状態(11次元的な状態)も見えたということ。
・「また、それらの仏陀の国土において完全な涅槃にはいられた仏陀・世尊たちの宝玉でできた遺骨のストゥパ(塔)、それらもすべて見えたのである。」
「ストゥパ」は11次元における自然界の4つの力の統一場、「遺骨」はそこにあるかたちにならない全存在世界のすべてのものを表す。
P.15
・「マンジュシリーよ、世尊がこのように稀有な奇跡を神通力によってあらわせられ、(それによって)色とりどりに美しく、まことに華麗なそれら一万八千の仏陀の国土が、如来を先に立て、如来を指導者としているありさまが見られるということは、いったいそこにはどういう理由があり、何が因縁となっているのですか」(マイトレーヤの問いかけ)
上述したように、如来が一条の光を放ち「何もない真空」の中の無限の平行世界を照らし出して認識している(実は、弥勒菩薩に認識させている)のだが、その無限の平行世界が見えることについて「なぜなのか?」と文殊菩薩に問うているということ。
この箇所は、弥勒菩薩による「なぜ宇宙(無限の平行宇宙)が始まったのか?」という問い(小宮氏の語る、いわゆる「始まりの問い」)になる。法華経は「始まりの問い」を明記した唯一の仏典であるといえる。
なお、筆者の私見だが、法華経の他に新約聖書に「始まりの問い」について記されている可能性があると考える。しかしながら、どの箇所かはまだ見いだせていない。ちなみに、有名な「初めに言葉ありき」の一節は「始まりの問い」とは趣旨が異なるように思えるが、「言葉」は「真理(法華経)」と同義だといえるとは思う。
ここ以外にも、後の「従地涌出品」においても、弥勒は「この計数を超えた無数の菩薩はいったい、どこから現れたのか?」との疑問を持つが、この箇所は「始まりの問い」を別の言葉で言い換えたものである。
P.16
・「およそそれらの国土のなかにいる衆生たちはみな、アヴィーチ地獄から最高の存在界にいたるまでの、それら六種の境涯のなかにいて、彼らは死んだり、生まれたりしている。」
六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)において衆生が輪廻転生をくりかえす様が見えるということ。「六道」というと私たちが生きるこの世界以外に数々の世界があるように思えるが、実は存在の心の状態を意味し、そのような心のいずれかを持ちながら3次元世界で肉体的な生死を繰り返しているということである。
P.17
・他の善逝の息子
他の如来からすでに授記を受けている菩薩を指す。小宮氏はそのような菩薩をとくに「山林僧」と呼んでいる。
P.18
・仏陀の乗り物(仏乗)
如来から授記を受けた後の菩薩行のこと。
P.18-19
・「ある人たちは~施物を与える。~あるところでは人々は栄える王位を捨て、~褐色(壊蘭色(えらんじき))の衣をまとい、頭髪と鬚(ひげ)を落とす。」
ここからP.22の5行目までが「布施論」が説かれている箇所だが、如来から授記を受ける代償は人間としてのすべて(実はそれらは仏法の前では幻のような意味のないものではあるが)であるということ。仏法に帰依することの厳しい一面を説いている。
P.19
・「私は見る、ある菩薩たちは比丘として~荒野に住んでいる。」
ここも、山林僧のことが述べられている箇所である。「従地涌出品」で計数を超えた無数の菩薩が出現するが、かれらもこのような暮らしを送っているのである。この箇所は、そのような「従地の菩薩」がどのようなものであるかに触れている箇所でもある。
P.22
・「あたかも空行く鳥のように、汚れにそまらぬ善逝の息子たちは、(すべての)ものは動かないものであり、(しかも)差別をもってあらわれるものであることをさとっている。彼らは知をもって、最高の菩提に出で立ったのである。」
仏の息子たちは、「何もない真空」の中にある虚空会を見ることができる。さらには、自らもその虚空会の中にいることも理解しており、知(悟り)をもって、彼らは最高の菩提に出で立った、という意味。
・勝利者たちの遺骨(舎利)
見宝塔品の「(一塊となった)如来の身体」と同じ意味。すなわち、全存在世界の全情報を表す。
P.22-23
・「また、ガンガー河の砂(の数)ほどにも多く幾千・コーティものストゥパを私は見る。~それら(のストゥパ)によって十方(の全世界)は美しく輝いている。~私も、またこれら幾コーティもの生命あるものたちも、ここにいながらにして、このすべてを見た。勝利者がこの一条の光を放たれて、神々(の世界)を含めたこの世間が花と咲くのを。」
ここでの「ストゥパ」は見宝塔品の「ストゥパ」と同義であるが、簡単にいえば、霊的に高度な精神ぐらいの意味になる。
また、「それら(のストゥパ)によって」以降の部分は、存在の11次元構造を詩的に表現したものである。
なお、「供養」とは、如来の教えを理解しようと努力することである。如来にとっては、わが子のような弟子たちの成長が何よりの喜びになるのであろう。
P.23
・「以上のような量り知れない前代未聞のこの瑞相」
釈迦が放った一条の光によって弥勒が見た無限の世界の広がりのこと。
・「善逝の子よ、(彼らに)予言を与えていただきたい、」
「善逝」とは、如来の別の呼び方で、ここで「善逝の子」とはマンジュシリー(文殊)のこと。また、「予言」とは授記のことだが、授記は本来、如来が授けるもので、菩薩であるマンジュシリーが与えるものではない。とはいえ、如来の言葉(正しい教え)の象徴がマンジュシリーであるので、ここでの授記は、如来の授記と考えてよいだろう。
・「どんな目的をもって、善逝がいま、このような光明を放たれたのか(についての予言を)。」
すでに述べたように、「光明」を放ったのは釈迦如来であるようにみえるが、小宮氏は、釈迦が弥勒に光を放たせて無限の世界を見せているのだと語っている。
ちなみに、「どんな目的をもって」の答えだが、それは如来が教えの会合(虚空会)を開くためである。すなわち、釈迦は虚空会を開く準備として弥勒(実は法華経の読み手)に無限の世界を示しているのである。
「予言」を受けることによって、如来の弟子たちが未来世で如来の法華経を読んだときに無限の世界を認識することが可能となる。法華経の教えはそのような構造となっているのである。