小宮氏によれば、「正しい教え」の観点からみた正法・像法・末法が文明のサイクルとして流転しているという。
例えば、このわれわれが住む世界では、紀元前7~5世紀頃(諸説あり)釈迦牟尼如来が現れ、その後、インドのマウリヤ朝のアショーカ王(聖転輪王)の保護もあり、入滅後500年程度は、その正法がインドを中心に中近東や東南アジアに伝播して行った(正法)。
しかし、入滅後500年を過ぎた紀元前後ともなると、上座部・大乗への分派以外にも、数々の宗派への分派が顕著となり、教えの後継者たちの解釈が正法から乖離し始めるようになった(像法)。
そして、チベットや中国を経て日本に伝来した前後には正しい教えの本質から著しくかけ離れたものとなり、日本の鎌倉時代以降にいたっては、念仏だけを唱えていればよいとか、瞑想だけをしていればよいなどと各宗派の開祖が勝手なことを言いだすようになり、さらには、織田信長のような実力者が力で世を支配するようになった(末法)。
そして、それぞれの時代に新たな如来が現れるという。
小宮氏によれば、釈迦の像法に現れたイエス・キリストが、釈迦からみた場合の「像法の如来」であるという。別の見方をすれば、「像法の如来」の出現によって、その前の如来は「正法の如来」の地位を得ることになる(ちなみに、この時点で「正法の如来」の前の教え(ミトラ教?)はほとんど完全に消滅する)。
このような、文明の「新陳代謝」により、この世界に「正しい教え」が連綿とあり続けることになるのである。