実は、私の大学の専攻は哲学でした。だからというわけではありませんが、ここで一つ哲学的なお話をしたいと思います。
皆さんは、自分自身の自我について考えたことはありますでしょうか?「我思う、故に我あり」と言われるように、ものを考える主体の自我が存在するのはあまりにも当然のことであり、我々が意識的に考えることはあまりないと言っていいでしょう。
この自我の考え方は、「エゴ理論」と呼ばれるものであり、キリスト教やユダヤ教、イスラム教にも見られる今日の中心的な考え方です。
しかし、今日お話するのは、少し違った考え方です。それは、「バンドル理論」と呼ばれる考え方で、「自我というのは常に継続して存在しているものではなく、人の一つ一つの連続的経験から起きる錯覚」であるという考え方です。
(引用元:明晰夢.com「自我とは何か。」)
これは、2500年前にお釈迦様が発見したと言われ、生まれた頃の自分、10年前の自分、1年前の自分、1ヶ月前の自分、昨日の自分、1時間前の自分、1分前の自分、1秒前の自分、0.1秒前の自分、0.00001秒前の自分…と無限に細分化された自己という認識が間断なく繋がって「束のように」存在する自己の集まりが自我というものであるという考え方です。
「エゴ理論」によれば、自我は永遠不変のものですが、「バンドル理論」ではそうは考えません。一瞬一瞬の自分は別々の存在であると考えます。そしてそれは、水の流れのように一瞬たりとも同じかたちをとるということはありません。仏教的に言えばまさに「無常」ということになります。
私がこのような考え方に初めて触れたのは、大学2年生の頃に講義でトーマス・ネーゲルの倫理的行為についてのカント解釈の話を聞いたのが初めてでした。それは、大まかに言えば、「良い行い」は、他人だけではなく、動機づけのレベルで未来の自分自身を他人のように捉え、その未来の自分自身のためにも行うことができるというものでした。当時、この考え方に、なんとなく感銘を受けたのを覚えています。
そして、30代の後半になって、ある精神科医の著作を読んでいて、ある記載に出会いました。
「……時間は存在であり、存在は時間である。……世界のすべての存在は、私が自分自身を配列してそれを存在として見ているのだから、そしてそれらの存在の一つ一つが時間なのだから、自己は時間だということになる。……だから松も時間、竹も時間なのだ。時間とは飛び去り流れ去るだけのものではない。もしそうなら時間に間隙があく。……世界の全存在は間隙なくつながって時間の連続を構成している。存在が時間だから、私自身も存在としての時間なのだ……」
(『心の病理を考える』木村 敏著)
これは、著者の木村氏により現代語訳されていますが、実は、道元禅師の『正法眼蔵』の一節です。20世紀にハイデッガーが『存在と時間』で同趣旨のことを論じていますが、なんと13世紀に完結なことばで語っているのでした。
この「存在こそが時間であり、時間こそが存在である」という言葉に、私は非常に感銘を覚えました。そして、あることをきっかけに時間、さらに言えばそれの別形態である自己というものが、取り止めのない幻のようなものであるという印象を持つに至りました。
そのことについては、また、次回お話したいと思います。