法華経の注釈集 化城喩品(その1)

(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)

P.188

・「過去の因縁」(本章タイトル)

本章は、漢文訳のタイトルである「化城喩品」と呼ばれることが多いように思うが、サンスクリット語からの訳は「過去の因縁」となる。「化城喩品」の由来となった「化城の譬え」も素晴らしいと思うが、著者は、「過去の因縁」という原題のほうが本章の内容を上手く言い表しているように思う。

ちなみに、岩波文庫版では「前世の因縁」(中 P.11)、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』では「過去との結びつき」(上 P.429)となっている。

 

P.188-189

・「『たとえば、比丘たちよ、ある人が、この三千大千世界にあるほどのの地の要素(地界)のすべてを砕いて粉末にするとしよう。そこで、その人は、その世界のなかから一粒の原子の塵を手にもって、東の方角に向かって一千個の世界を通り越していって、その一粒の原子を下に置くとしよう。それから、その人は、さらに第二の原子の塵を手にもって、その塵を下に置くとしよう。~このような仕方で、その人が東の方角において地の要素をすべて置いたとしよう。比丘たちよ、お前たちはこれをどう思うか。それら(東の方角にある)諸世界の終わりや限界に、計算によって到達することができるであろうか』

 彼ら(比丘たち)はお答えした。

『それはできません、世尊よ。それはけっしてできません、善逝よ』

 世尊は仰せになった。―

 だが、比丘たちよ、それら原子の塵が置かれたり、置かれなかったりしたそれら(東の方角にある)諸政界(の数)ならば、だれか数学者か計算の大家が、計算によってその限界に到達することもできるであろう。けれども、およそ、かの世尊の大通智勝如来が完全な涅槃にはいられてから経過したほどの劫、それら幾百・千・コーティ・ナユタもの劫については、計算を用いてもその限界に達することはけっしてできない。』」

大通智勝如来が完全な涅槃に入ってから経過した時間についての表現である。三千大千世界には10の64乗個の原子が存在すると計算されているが(植木雅俊著 『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.154)、それがすべて尽きるまで1,000個の世界を過ぎるごとに原子をひとつづつすべて置くという表現には圧倒される。しかし、大通智勝如来が入滅してから過ぎた時間はそのような計算によって到達できないほどの時間がたっているという。要するに、それは時間という概念を超えているということだろう。

同様の表現が如来寿量品にもあるが(Ⅱ P.107~108)、本仏としての如来の寿命はさらに気の遠くなるような時間の長さとなっている。

ちなみに、原子については、釈迦と同時期(B.C.5~4C)のギリシアの哲学者レウキッポスとデモクリトスにより、「自然を構成する分割不可能な最小単位として初めて提唱されたという(Wikipediaより)。

原始仏教の経典『スッタニパータ』においては、地獄での寿命の長さの例えに胡麻の粒が用いられているが(中村元訳 『ブッダのことば』、岩波文庫 P.145参照)、原子という概念はまだ登場していない。500年の時を経て、ギリシアで生まれた原子の概念がインド方面にも伝わり、法華経にも導入されたのであろう。

あるいは、現存していない仏典にすでに原子の存在が予言されていたのかもしれない。仏教は「空」の概念を見事に説き明かしているのだから。

なお、現代科学的に言えば、前半の原子の塵が置かれたり置かれなかったりした膨大な数の諸世界は、物理学者でも計算できる3~7次元的な世界を表しており、後半の時間で計算できない世界は、宇宙が始まる前の真空のことを表していると言えるだろう。

 

P.192

・「さらにまた、比丘たちよ、すぐれた菩提の座に登ったかの世尊のために、三十三天の神々は高さ百・千ヨージョナもある巨大な獅子座を設けたのであって、かの世尊はその上に坐して、この上ない正しい菩提をさとったのである。」

大通智勝如来は、あらゆる(煩悩の)魔の軍勢を打ち負かしても、あるいは、十中劫もの間、菩提樹の根もとで禅定のままにすごしても、この上ない正しいさとりに到達することができなかった。しかし、三十三天の神々が設けた巨大な獅子座に坐したところ、それをさとることができたという。

ところで、この「獅子座」は何を意味しているのであろうか。ここで思い出されるのは、見塔品の以下の文章である。

「『実に私は、かつて菩薩の修行を行なっていたとき、菩薩のための教えであるこの”正しい教えの白蓮”という法門を聞かないうちは、この上ない正しい菩提において完成されなかった。しかし、私はこの”正しい教えの白蓮”という法門を聞いたあとでこの上ない正しい菩提において完成されたのである。』」(Ⅱ P.24)

おそらく、この「獅子座」とは、正しい教えを説く立場であり、「獅子座」に坐したとは法華経を得たということだろう。

また、「三十三天(忉利天(とうりてん)、すなわち5次元世界)の神々」とは、この法華経を説いた如来も末法まで、守り続けてきた僧侶や学者たちのことであろうと著者は考える。

 

P.193

・「そして、(この如来が)さとるやいなや、そのことを(十六名の王子たちが)知って―(実は、)まだ太子であったときのこの世尊には、十六名の実の息子たちがおり、~彼ら十六人の王子たちは一人一人が、種々の楽しげな、美しい、眼に快い玩具をもっていたのであるが、比丘たちよ、そのとき、~大通智勝如来が、この上ない正しい菩提をさとることができたことを知って―彼ら十六人の王子たちは、それら種々の楽しげな玩具を投げだしたまま、~すぐれた菩提の座に登った、正しいさとりを得た尊敬さるべき世尊の大通智勝如来のところへ近づいていったのである。」

大通智勝如来に幼い16人の実子がおり、彼らは持っていた玩具を投げ出し、すぐさま正しいさとりを得た大通智勝如来に近づいていったということだが、ここでの「玩具」とは、譬喩品で述べられた「羊の車」や「鹿の車」と同種の”仮の教え”であり、16名の王子たちはこれらを捨て、ただちに如来の真の教えを求めたということであろう。

 

P.196

・「さらに、それらすべての世界のあいだには”中間の世界”があり、それらは悲惨な境遇であり、(苦に)おおわれた深い暗黒(の世界)であって、そこへは、~太陽と月でさえも、(その)光によって光をもたらすに足らず、(その)光彩によって光彩をもたらすに足らず、その輝きによって輝きをもたらすに足らないのであるが、それら(中間の世界)にさえも、そのとき、巨大な光明が出現したのである。(そこで、)それら中間の世界に生まれていた衆生たちもまた、~互いに見合い、互いに知り合うのである。」

この「中間の世界」については、仏教学者の植木雅俊氏は、この箇所をブラックホールについての記載ではないかと推測している(『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.154-155)。もしそうであるとすると、ブラックホールが発見される約1,900年前にすでにその存在が予言されていたことになり、非常に驚くべきことである。

なお、現代科学的に言えば、「中間の世界」とは、まだ位置が決まっていない状態、「シュレディンガーの猫」の無限、「巨大な光明」とは、如来の叡智の拡大によって生み出される世界の中に位置が決まるということ(ハイゼンベルグの不確定性原理)、「互いに見合い、互いに知り合う」とはエバレッタの提唱したような並行宇宙ということになろうか。

 

P.197

・ブラフマー神の天の乗り物

ブラフマー神(梵天)は無限の平行宇宙の象徴である(法華経の注釈集 序品参照)。また、「乗り物」とは仏陀の教えのことである(P.283参照)。要するに、「ブラフマー神の天の乗り物」とは、平行宇宙の無数の神々が信奉している、”さとりへの教え”であると考えることができる。

そのような神々が十方から大通智勝如来のもとに現れ、彼らの「天の乗り物」を捧げ、身も心も献上するようにして、彼に教えの輪を転ずることを懇願するのである。

実は、この描写は、方便品で、教えを広めるか否か迷うさとりを開いた直後の釈迦の前に神々が現れた場面に似ている(P.72-73参照)。方便品は神々の側からみた描写となっているが非常に興味深い。

ところで、P.196から214までの、十方の神々が大通智勝如来の前に集い教えを懇願する場面は非常に長い。場合によっては、東の方角の部分を読んで、あとはほぼ同じということで読み飛ばしてもよいと思う。まずは大きな流れを掴むのが肝要である。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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