(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.175
・「『彼〔カーシャパ比丘〕は(転生の最後の身体で、”光明を得た(光徳)”という世界において、”偉大なる光輝(大荘厳)”という劫のときに、”光の輝き(光明)と名づける、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来として、この世にあらわれるであろう。』」
※〔 〕は筆者が補った。
尊者マハー・カーシャパに対する授記。
P.176
・「『また、魔王のパーピーヤスをもそこにはつけこむことができず、魔の群れを見出されないであろう。しかし、かりに魔王や魔の一群がいるようになったとしても、実にこの世界では、(彼らは)世尊、光明如来の教誡のもとにあって、正しい教えを身につけることに専心するものとなるであろう。』」
ここでいう、「魔王」や「魔の群れ」は、不可知論者や妄語戒者、あるいは光明如来の弟子たちの心の奥底に潜む悪しき思いのこと。このような「魔王」や「魔の群れ」が弟子たちにつけ入る可能性はあるが、最終的には如来の教化により克服されるということである。
「魔王」や「魔」が精神構造の4次元を象徴するものであることから、光明如来の現れる国土(仏国土)は4次元を表しているものだと考えられる。
P.177
・「幾千・コーティもの菩薩がそこにはいて、彼らの心はよく調練され、その有する神通力は偉大である。また、如実の人(仏陀)たちの広大な経典を受持している多くの菩薩たちが、幾千となく数多くいるであろう。」
ここでの菩薩の「神通力」とは、現一切色身三昧(妙音菩薩品参照)で思うがままに姿かたちを変えながら転生を繰り返し、多くの人々を教化しながら、最後には、「ものは本来生ずることがないことを認容する知(無生法忍)」(P.166~167)を理解するというような力のことである。
また、「如実の人(仏陀)たちの広大な経典を受持している」とは、正しい教えを承継している、すなわち、授記をすでに受けているということである。
P.179
・「このように、勇者よ、(お前たちも仏陀となるだろうとの)この上ないお声を聞いたのではあるが、(それによっていっそう)私どもは不安に駆られています。もしもわれわれが(まのあたり)予言を与えられますならば、そのとき私たちは(不安がなくなり、)心安らかなものとなるでありましょう。」
ここでいう「(お前たちも仏陀となるだろうとの)この上ないお声を聞いた」とは、方便品にて釈迦が1,200人の阿羅漢たちに対して、将来仏陀になるとの予言を与えたことを指す(P.76参照)。マハー・マウドガリヤーヤナら3人の比丘は、不安を取り除くために、改めて名指しの授記を与えるよう、釈迦に懇願しているのである。
P.179-180
・「『比丘たちよ、この私の大弟子である長老のスブーティは、三百万・コーティ・ナユタもの仏陀たちに恭敬を行ない、~菩提を完成するであろう。そのようにいろいろと(仏陀に)お仕えして、(転生の)最後の身体において、”月を頂きにもつもの(名相)”と名づける、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来として世間にあらわれるであろう。』」
尊者スブーティに対する授記。
P.180
・「『また、そこでは、人々は(りっぱな)楼閣の享楽のなかで生活を営むであろう。』」
ここでいう「楼閣」とは、ストゥパと同じく、次元構造を持った精神の象徴である。
人々が「(りっぱな)楼閣の享楽のなかで」暮らすとは、4次元的な悪しき思いから離れて暮らす、すなわち、5次元的な心で暮らすということである。
このことから、名相如来の仏国土は5次元(忉利天(とうりてん))の象徴であると考えられる。
・「『彼(仏陀)には多くの量り知れない弟子がいて、その数を数えても数えつくすことはできない。』」
このすぐ後に、虚空会と思われる描写があることから、「多くの量り知れない弟子」には授記で次々と繋がった無数の弟子たちが含まれていると考えられる。
・「『その世尊は空中にとどまって、たえず法をとかれるであろう。』」
この記載は、人々の「楼閣」の上にある虚空会で名相如来が法を説いている様を表していると考えられる。
P.181
・「そこにはまた、大威力のある大ぜいの菩薩たちがいるであろう。彼らは不退転の教えの輪を転ずるものであり、~この仏陀の国土を輝かすものである。」
18世紀のスウェーデンの思想家スウェーデンボルグは、自らの著作『霊界日記』(彼はこれを生前公開しなかった)で霊能力で見た不思議な世界について記しているが、小宮氏はこれを5次元的な世界であると説明している。
また、小宮氏によれば、このような5次元的な世界からは8次元以上の天上の世界は、ただ光輝いているだけで、どのような世界かは分からないという。実は、その光り輝く世界には、菩薩たちの9次元以上の仏国土があり、下の次元にエネルギーを供給しているという。
P.182
・「『この私の弟子の長老マハー・カーティヤーヤナは、八十万・コーティもの仏陀のもとで恭敬を行ない、~それらの如来が涅槃にはいられたとき、それら(如来たち一人一人のために、高さは千ヨージョナ、周囲は五十ヨージョナある七宝からなるストゥパ~を建てるであろう。』」
ここでの「ストゥパ」は見宝塔品の「ストゥパ」と同義である。すなわち、将来、マハー・カーティヤーヤナは、涅槃に入った如来たちの供養のために「ストゥパ」を建てる、つまり、宇宙の始まりを説く正しい教えを自らも説くということである。
P.182-183
・「『また、彼は(輪廻としての)最後の身体において、最後の(人間としての生存を得たときに、この世において、”ジャンブー河の金の光(閻浮那提金光(えんぶなだいこんこう))”という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。』」
尊者マハー・カーティヤーヤナに対する授記。
P.183
・「『また、その仏陀の国土はきわめて清浄で~地獄、畜生、ヤマの世界のものもアスラの群れもなく、多数の神々や人間で満ちていて、~』」
閻浮那提金光如来の仏国土の描写である。6次元的な世界を表していると考えられる。
5次元と6次元の違いは、5次元が3次元の任意の時空に観察の位置を定める(前世の因縁により無意識的に定まる)ことができるだけであるのに対して、6次元は位置だけではなく無限のタイムラインから任意のものを(無意識的に)定めることができる点にある。6次元的な精神を持つ者が3次元に肉体を持った場合、国家指導者や大富豪となることが多いという。
P.184
・「その国土には、量り知れない無数の菩薩たちや声聞たちがいる。」
名相如来(スブーティ)の仏国土と同じように、授記で繋がった無数の弟子たちがいるということである。
・「『この私の弟子である長老マハー・マウドガリヤーヤナは、二万八千の仏陀に(お会いして)喜ばせるであろう。また、それらの仏陀・世尊たちに種々の恭敬を行ない、~それら仏陀・世尊たちが涅槃にはいられたとき、その仏陀のために七宝のストゥパ~をつくらせるであろう。』」
P.182のマハー・マウドガリヤーヤナの未来世と同趣旨である。ストゥパを「つくらせる」とあるので、自分の弟子たちにも”正しい教え”を説かせるということであろう。
P.185
・「『また、(転生の)最後の身体を得たときに、”タマーラ樹の葉や栴檀の香りのある(多摩羅跋栴檀香(たまらばっせんだんこう))”という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来として世にあらわれるであろう。』」
尊者マハー・マウドガリヤーヤナに対する授記。
・「『また、その仏陀の国土は”心を楽しませるもの(意楽)”と名づけられ、その劫は”快楽の満ちあふれた(喜満)”という名であろう。そして、その仏陀の国土はきわめて清浄で、~多くの神々や人間で満ちあふれ、幾百・千もの聖仙たち、すなわち声聞や菩薩たちが楽しむところである。』」
多摩羅跋栴檀香如来の仏国土の描写である。7次元的な世界を表していると考えられる。7次元的な心の持ち主は、俗世的な富や権力の追求には関心を持たず、科学や哲学により、宇宙あるいは自己存在について探求するという。アインシュタインやスティーブン・ホーキングのような理論物理学者がその典型例である。
ここでいう「快楽」は肉体的な快楽ではなく、叡智の喜びという意味であるのは言うまでもない。
上述したマハー・カーシャパら3人の仏国土の描写もそうだが、マハー・マウドガリヤーヤナの仏国土の描写は9次元の仏国土と7次元的な世界が混ざりあったような表現となっている。
P.186
・「幾千・コーティもの劫のあいだ、彼ら(仏陀)の広大で妙なる正しい教えを保持し、またそれら善逝たちが涅槃にはいられたそのときは、そのストゥパに対して彼は供養を行なうであろう。
それら最高の勝利者のために、勝利の幡の立てられた宝玉からなるストゥパを、彼は建立するであろう。」
P.182のマハー・マウドガリヤーヤナの未来世と同趣旨である。