(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)
P.7
・「そのとき、世尊は、”薬の王(薬王)”という菩薩大士をはじめとする、かの八万の菩薩たちに向かって仰せになった。
『薬王よ、この集会のなかに、多くの神々、龍、ヤクシャ(夜叉(やしゃ))、ガンダルヴァ(乾達婆(けんだつば))、アスラ(阿修羅(あしゅら))、ガルダ(迦楼羅(かるら))、キンナラ(緊那羅(きんなら))、マホーラガ(摩睺羅迦(まごらか))、人間や人間以外のものたち、また、比丘・比丘尼、信男・信女たち、声聞の道(声聞乗)に属するもの、独覚の道(独覚乗)に属するもの、菩薩の道(菩薩乗)に属するものたちがいて、如来(である私)から直接この法門(『法華経』)を聞いているのであるが、それらのものをお前は見ているか』」
ここでの、「八万の菩薩」や、神々、人間以外のものたち、四種の会衆などは、序品の冒頭ですでに登場しており、ここで再び登場したことになる。これは再び序品の始まりの視点に戻ったことを意味する。
ただし、この壮大な集会の様子を見ている者が弥勒から薬王へと変わっている。
これは、この法師品以降は、過去世で授記を得た菩薩に対して語られていることを意味する。また、釈迦がこれまでの人間の目線ではなく、仏の目線で語っているということでもある。ここから抽象的で難解な内容が増えてくる(とはいえ、小宮氏のYoutube動画を見ていれば、理解するのはそれほど大変ではない)。
また、薬王らが見ている集会で『法華経』を聴いている神々や人間以外のもの、四種の会衆といった聴衆全体は、読み手の中の全創造世界を表している。全宇宙はわれわれの内面に広がっているということである。
P.8
・「『薬王よ、彼らはみな菩薩大士であり、この集会において(この法門のなかの)わずか一詩頌でも一詩句でも聞くならば、あるいはまた、わずか一度でも(菩提に向かって)心を起こし、この経典を随喜するならば、薬王よ、これらの四衆はみな、この上ない正しい菩提をさとるであろう、と私は予言するのである。』」
四種の会衆のすべてに対する授記。シャーリープトラやマハー・カーシャパらを始めとした1,200人の阿羅漢たち、2,000人の弟子たちに続き、ついに会衆のすべてが授記を受けるに至ったということであり、これは、すべての衆生をただ一つの仏陀の乗り物に導くという”仏の慈悲”のあらわれのようにも思える。
P.8-9
・「『薬王よ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、だれかある良家の息子(善男子(ぜんなんし))たちにせよ良家の娘(善女人(ぜんにょにん))たちにせよ、この法門を聞き、(そのなかの)わずか一詩頌でも聞き、わずか一度でも(菩薩に向かって)心を起こして(この経典を)随喜するならば、薬王よ、その良家の息子あるいは娘たちもまた、この上ない正しい菩提をさとるであろう、と私は予言する。』」
・「『だれかある良家の息子たちにせよ娘たちにせよ、この法門からわずか一詩頌でも受持し、(それを)読誦し、説明し、体得し、書写し、書写して記憶し、ときおり注意深く吟味するとしよう。そして、その(書写された)書物に対して、如来に対するような敬意を起こし、師に対するような敬意をもって恭敬し、尊敬し、供養するとしよう。~薬王よ、この法門からわずか一詩頌でも受持するなら、あるいは(この法門を)随喜するならば、薬王よ、彼らはみな、この上ない正しい菩提をさとるであろう、と私は予言するのである。』」
・「『良家の息子にせよ娘にせよ、この法門から四句よりなる詩頌をわずか一つでも受持して、(他人に)聞かせたり、教えたり、あるいはこの法門に対して敬意をいだいたりするならば、その人こそ、まさに未来世において、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。このように見よ』」
・「『それはなぜかといえば、薬王よ、良家の息子にせよ娘にせよ、この法門からわずか一詩頌でも受持するならば、その人は如来とみなされるべきだからであり、神々を含む世間の人々によって如来に対するのと同じように恭敬されるべきだからである。』」
ここでは、釈迦が自らの入滅後に法華経を随喜する”良家の子”たちはだれでも未来世において仏陀になるであろうという”未来の菩薩”たちに対する予言が与えられる。
ここで、まだ見ぬ不特定多数の相手に対して与えられる予言は、予言として有効なのか、有効であるとするならば、どのような意味があるのかが問題となろう。
この”未来の菩薩たちへの予言”について、既存の仏教界は”仏陀のいないこの世で授記が得られるか”という観点で、次のように考えてきた。
①釈迦が、過去世において、燃燈仏より成仏の確約である授記を与えられたという言い伝えより、仏陀となるためには、必ず師である仏陀から授記を与えられなければならないと考えられた(授記作仏)。
②さらに、大乗仏教では、当初、如来に直接会い(見仏)、直接授記を与えられることが成仏の必須条件とされた。
③しかしながら、釈迦の入滅後は当然ながら、如来に直接会うことができないため、如来のいる時代に転生しないかぎり、上記②の成仏の必須条件である直接の授記をこの世で得ることができない。
④しかし、『般若経』の出現により、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵の六波羅蜜を完成させるという厳しい条件を満たせば、万人がこの世で授記を得ることができる(般若波羅蜜から授記を与えられる)ことができるとされ、釈迦入滅後に授記を得る道が開かれた。
⑤『般若経』が万人が授記を得られるとしながらも、六波羅蜜を完成という条件が極めて厳しいものであったため、その後の『無量寿経』では、10回念仏を唱えるだけで、死後は極楽浄土に転生し、あの世で阿弥陀仏に導かれて授記を与えられることとなった。しかし、これではあまりにも安易にすぎるし、この世での授記はあきらめるしかない。
⑥そこで、『法華経』により、この法門を受持すれば、釈迦の入滅後の世であっても例外のない授記(総授記)が与えられ、成仏するとされた。言い換えれば、如来のいない世では、『法華経』という経典により授記を与えられるということである(以上、「授記(Wikipedia)」、「日蓮宗新聞社:待ち望まれたこの世での成仏(2017年11月10日)」、「岡田行弘、『『八千頌般若』と『法華経』の共通性ー構想・教説の展開・物語をめぐってー』印度學佛教學研究 第63巻第2号平成27年3月」参照)。
以上のように、仏教上の理論展開として”仏陀のいないこの世での授記”のために考案されたのが、万人に対する「総授記」ということになる。この「総授記」という考え方は釈迦入滅後に仏法を志すものにとっては福音となったであろうが、経典から授記を得られるというのは論理としては技巧的であるし、「わずか一詩頌でも受持」すれば成仏できると考えるのは、”信ずれば救われる”といったご利益宗教的なてらいがあるように思える。
他方、小宮氏によれば、この”未来の菩薩たちへの予言”は、仏陀から過去世において直接授記を受けたものたちについて書かれた予言だという。すなわち、過去世ですでに授記を受けているからこそ、仏陀のいない世に生まれても、『法華経』に「ビビビッ」と反応し、歓喜することができるということである。また、逆にいえば、仏陀のいない世に『法華経』に反応できるものは、過去に授記を受けているとも言えよう。
小宮氏の説では、如来のいない世の授記はないことになるが、こちらのほうが考え方としては自然であるように思える。
なお、如来入滅後の授記はないとしても、そのような時代に『法華経』に惹きつけられるような人であれば、強固な仏縁があるため、(3次元的な言い方になるが)如来と会って直接授記を受けるのは時間の問題ではなかろうか。
P.10
・「薬王よ、その良家の息子あるいは娘は、この上ない正しい菩提において完成されたものとみなされるべきであり、如来に等しいものであり、世間の人々の幸福を願い慈しむものとして、(過去に立てた)誓願ゆえに、このジャンブー州の人間たちのあいだに、この法門を説き明かすために生まれてきたものである、考えられるべきである。すなわち、私が完全な涅槃にはいったあとで教えの高貴な実行も、仏陀の国土への高貴な生誕もみずから捨ておいて、この法門を説き明かして、衆生たちの幸福のために、(彼らを)慈しむために、ここ(ジャンブー州)に生まれてきた、と考えられるべきである。』」
ここは、過去世で授記を受けた”スーパー大菩薩”とはどういうものか、また、なぜこの苦しみの多い3次元世界に生まれてくるのかを説明した重要な箇所である。如来の弟子は授記を与えられ、法華経を学び広めるという誓願を立てることにより、その意識は存在構造の9次元に止揚され、いわば”仏国土の住人”となる。この”仏国土の住人”こそが”スーパー大菩薩”という存在である。
この”スーパー大菩薩”は、すばらしい仏国土に安住することも可能だが、「(過去に立てた)誓願ゆえに」、『法華経』を説き広めるために生まれてくるというのである。
この箇所は、”スーパー大菩薩”たちの誓願による使命を高らかに宣言したところであると言えよう。
・「薬王よ、良家の息子にせよ娘にせよ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を説き明かすなら、たとえそれがひそかにこっそりとであっても、まただれか一人の衆生だけに対してであっても、(この法門を)説き明かすなり、語り伝えたりするならば、その人は如来のなすべき仕事をはたすもの、如来によって遣わされたものと考えられるべきである。』」
前文につづき、”スーパー大菩薩”の使命について語っている。その使命とは、「この法門を説き明かす」ことであり、「たとえそえれがひそかにこっそりとであっても、まただれか一人の衆生だけに対してであっても」、「如来のなすべき仕事」をしたことになるというのである。
ちなみに、「この法門(『法華経』)」を聞いた者が得る福徳が随喜功徳品で説かれている(P.140~142参照)。
P.10-11
・「ところで、薬王よ、だれかある衆生が、~如来に向かって一劫(ごう)もの(長いあいだ)悪口を言うとしよう。他方、だれかが、以上(述べた)ような在家あるいは出家の説法者(法師)たち、この経典の受持者たちに対して、~一言でも好ましくないことばを聞かせるとしよう。(この両者を比べるとき、)後者のほうがいっそうひどい悪行である、と私は言うのである。それはなぜかといえば、薬王よ、かの良家の息子あるいは娘は、如来の装身具によって飾られているものとみなされるべきであるからである。(すなわち)薬王よ、この法門を書写し書物として肩に担う人は、如来を肩に担う人である。』」
ここでは、在家者であれ、出家者であれ、「この経典の受持者」(すなわち、『法華経』を理解し、暗記して説き広める者たち)は、「如来を肩に担う人」たちであり、この”如来の代弁者たち”に悪口を言うことは、如来に悪口を言うことよりもいっそうひどい悪行をすることになるというのである。