(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)
P.40-
・デーヴァダッタ(提婆達多(だいばだった))
釈迦のいとこにあたる人物。同じく釈迦のいとこであったアーナンダらとともに釈迦の弟子となるが、のちに離反する。
多くの伝承では、釈迦の命を狙った極悪人として描かれているが、どこまで事実であったかは疑問が残る。おそらく、信念の違いから新座の弟子を連れて分派したというのが事実だったのではないかと思う。
なお、後に唐の三蔵法師がインドを訪れたときにも、デーヴァダッタの教団が細々とではあるが、まだ、残っていたという。
P.42
・「『~夜は夜で、寝ている(聖仙の)寝台の脚をしっかりと支えた。』」
(岩波 中 P.207)
「『~夜には寝床に寝ている聖仙の足を支えた。』」
中公版、岩波版ともに、この箇所は正確に翻訳されていないと考えられる。『梵漢和対照・現代語訳 法華経』では、「~夜は、寝ている〔仙人〕の寝台における脚〔の代わり〕を私は担ったのだ。」となっている(同書 下 P.83)。背中に板状の寝台を背負い、四つん這いになってベッドの脚の役割を果たしたのであろうか。
P.44
・「『~このデーヴァダッタ比丘は、未来世において、量り知れず数えきれない劫を経たのち、”天のきざはし(天道)”という世界において、”神々の王(天王)と呼ばれる、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。』」
デーヴァダッタへの授記。事実がどうであったかはともかく、彼は釈迦の命を狙った大罪人とされていたのであるが、そのような者でも如来に帰依して仏法を修めれば、授記を得て自らも仏陀になる資格があると言っているのである。これは、法華経の編纂者の強いメッセージであるように思える。
・「彼の遺身は遺骨として分けられず、遺身は完全な一体のまま(全身舎利)で、七宝からなるストゥパのなかに納められるであろう。』」
ここでの「全身舎利」は見宝塔品の「如来の身体」(入滅したすべての如来)と同じものである(P.23参照)。
天王如来も入滅後は、他の如来たちと渾然一体となり、すなわち、「如来の身体」の一部となり、「多宝塔」(宇宙が始まる前の何もない真空)の中に祀られるということであろう。
P.45
・「『比丘たちよ、良家の息子でも良家の娘でもだれでもよいが、未来世において、”正しい教えの白蓮”という経典のこの章〔ストゥパの示現〕を開き、聞いて疑わず、迷わず、清浄な心をもって信順するならば、その人によって三種の悪しき境涯へ続く門は閉ざされ、彼が地獄、畜生道、ヤマの世界へ落ちることはないであろう。十方の仏陀の国土に生を受けて、それぞれの生存の度ごとにこの同じ経典を聴聞し、神々や人間の世界に生まれて、すぐれた地位を獲得するであろう。また、どの仏陀の国土に生を受けようとも、彼は如来のおん前で、自然にあらわれた(化生)、七宝づくりの蓮華のなかに生まれるであろう」
ここでは、法師品と同じように、授記を受けた後に転生する未来世のことについて語られていると考えられる。過去世で法華経(とりわけ、多宝塔、多宝如来、虚空会や授記)について学んでいればこそ、次の生涯で法華経の教えに信順することができ、神々や人間の世界ですぐれた地位を獲得することができるということである。
なお、法華経の随所に見られる「比丘」という呼び方は声聞たちに対するものであり、「良家の息子」や「良家の娘」は菩薩に対する呼び方である。
・”知恵の積み重ね(智積(ちしゃく))”という名の菩薩(智積菩薩)
「下の方角にある多宝如来の仏陀の国土からきていた」とあるので、多宝如来とともにやってきた菩薩であろう。また、彼が多宝如来に自分たちの仏国土へ帰ることを進言すると、釈迦如来より引き止められ、マンジュシリー法王子にとの法の議論を勧められることから、彼はマンジュシリー法王子と同等の立場の菩薩であると推定される。すなわち、釈迦以外のあらゆる入滅した如来の法華経の象徴であると考えられる。
P.48-49
・「マンジュシリーは答えた。
『良家の子〔智積菩薩〕よ、〔この上ない正しい菩提をさとることができる衆生が〕いるのです。サーガラ龍王の娘で当年をとって八歳なのですが、知恵にすぐれ、鋭敏な能力をそなえ、~あらゆるものや(あらゆる)衆生に精神を集中する幾千もの三昧を一瞬のうちに獲得し、菩提への心を(起こして)退転することなく、広大な誓願を保ち、~彼女は正しい菩提をさとることができます』」
※〔 〕は筆者が補った。
ここで、サハー世界の大海のまんなかの宮殿でだれか法華経を理解してこの上ない菩提をさとることができる者はいるのか、という智積菩薩の問いに対して、マンジュシリーはわずか8歳のサーガラ龍王の娘(龍女)ならそれができるというのである。幼少、女性、しかも人間以外というハンディキャップをもつ彼女が仏陀になれるということは、法華経の編纂者からの強烈なメッセージであるように思える。
ちなみに、この龍女だが、きわめて秀でた能力を持ち、最後に男性の菩薩の姿へと変わることから、過去世で授記を得たスーパー大菩薩であると考えられる。現一切色身三昧で龍女として転生したのであろう。
・「智積菩薩は言った。
『私は拝見したのですが、世尊のシャーキア・ムニ如来、(まだ)菩薩として菩提を求めて努め励んでおられたとき、多くの福徳を積まれ、幾千もの多くの劫のあいだ、一度たりとも精進努力をなおざりされたことはありませんでした。~(ですから、)この(娘)が一瞬のうちにこの上ない正しい菩提をさとることができるというようなことを、(いったい、)誰が信じるでしょうか」
上記のマンジュシリーの回答に対する、智積菩薩の言葉。「まったく信じられない」という反応である。サハー世界以外のあらゆる仏陀の法華経の象徴である彼がこのような反応をしているとなると、幼い龍女が正しい菩提をさとることができるということは前代未聞であるということになる。
P.50
・「そこで、そのとき、尊者シャーリープトラ(舎利弗)はそのサーガラ龍王の娘にこう言った。
『良家の娘よ、あなたが菩提に向かって心を起こし、退転することもなく、量り知れぬ知恵をそなえていても、それだけのことでは、正しい菩提を得たものの位は得がたいのです。~』」
智積菩薩に続いて、シャーリプトラが女性は仏陀になることがきわめて困難であると言っている。
法華経では、シャーリプトラは小乗仏教徒の象徴として描かれているが(譬喩品、Ⅰ P.79~89参照)、ここでは当時の小乗教徒の誤った考えを示している。
P.51
・「そこで、サーガラ龍王の娘は、智積菩薩とシャーリープトラ長老とにこう質問した。
『私が世尊にささげたこの宝珠を、世尊は速やかにお納めくださいましたでしょうか、くださらなかったでしょうか』
長老は答えた。
『あなたも速やかにさしあげたし、世尊も速やかにおうけとりになりました』
サーガラ龍王の娘は語った。
『(その速やかさよりも、)大徳シャーリープトラよ、私が正しい菩提をさとるのは、もっと速やかなのです。もし私が大神通の持ち主となったならば、この宝珠をうけとられたかたよりも(もっと速やかなの)です』」
智積菩薩とシャーリプトラを痛快なまでにやりこめている場面である。
「宝珠」とは、P.48で智積菩薩が「経典の宝玉を会得し」と語っていることから、法華経の核心部分と考えられる。その「宝珠」を持っているとは、それを理解しているということであり、釈迦がそれを受け取ったということは、釈迦が龍女の法華経の理解を是認したということであろう。
この箇所を見ていると、個人的には、維摩経の「天女」の章を思い起こしてしまう。そこでもシャーリプトラは無生法忍を得た天女(おそらくスーパー大菩薩)と論戦を繰り広げており、見方によっては、天女に圧倒されているようにも見える。
本章と維摩経の「天女」の章には共通した思想があるように思えてならない。
・「それから、そのとき、サーガラ龍王の娘は、すべての世間の人々の環視するなかで、シャーリープトラ長老の見ている面前で、その女性の器官が消滅し、男性の器官が出現して、自分が菩薩であることをあらわして見せ、そのとき南の方角にすすんでいった。それから、~自分がさとりを開き、~教えを説いているさまをあらわしてみせた」
ここで、龍女は男性となり、自らがこの上ない菩提をさとることができる菩薩であることを示す。
ちなみに、個人的には、女性の姿をした菩薩になってもよかったのではないかと思う。東アジアでは女性の姿をした観音菩薩が広く受け入れられているのだから。
P.52
・「シャーキア・ムニ世尊の集会のなかの三千の生命あるものたちは、ものは本来生ずることがないと認容する知(無生法忍)を得たし、また三千の生命あるものたちは、この上ない正しい菩提にいたるという予言をうけた。」
このとき、多くの生命あるものが無生法忍と授記を得たという。このあたりはサービスとして書かれているような気がする。
・「そのとき、智積菩薩大士とシャーリープトラ長老は沈黙した。」
智積菩薩とシャーリプトラの「ぐうの音も出ない」という反応であろう。
この法華経や維摩経ではいいところのないように見えるシャーリプトラだが、彼は、釈迦が「私の後には、この者が教えの法輪を転ずるだろう」と言ったほどの優秀な愛弟子であったことを付言しておきたい。