(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.221
・16人の如来たち
ここで、16人の如来と彼らがいる方位を表にまとめると以下のようになる。
方角 | 世界の名前 | 如来としての名前 | |
1 | 東 | 歓喜 | 阿閦(あしゅく) |
2 | – | 須弥頂(しゅみちょう) | |
3 | 東南 | – | 師子音 |
4 | – | 師子相 | |
5 | 南 | – | 虚空住 |
6 | – | 常滅 | |
7 | 南西 | – | 帝相 |
8 | – | 梵相 | |
9 | 西 | – | 阿弥陀 |
10 | – | 度一切世間苦悩 | |
11 | 北西 | – | 多摩羅跋栴檀香神通(たまらばっせんだんこうじんつう) |
12 | – | 須弥相 | |
13 | 北 | – | 雲自在 |
14 | – | 雲自在王 | |
15 | 北東 | – | 壊一切世間怖畏 |
16 | 中央 | 娑婆 | 釈迦牟尼 |
8つの方角のそれぞれにおいて、如来が2人1組となるかたちとなっている(本来なら、釈迦は北東の如来となるべきであるが、彼が教えを説くサハー(娑婆)世界を中心として法華経の物語が進んでいるので中央となっているのであろう)。
この2人1組の如来のカップリングが意味しているものはよくわからない。あくまでも私見であるが、これは、2つの量子が必ず対になって存在するという、量子エンタングルメントの存在を示唆したものかもしれない。
P.222
・「さらにまた、比丘たちよ、その当時、衆生たちは沙弥であったわれわれから教えを聞いたのであり、~そのような人々がいま再び声聞の段階にいるのであり、(それが漸次)この上ない正しい菩提に向かって成熟せしめられているのである。これが、彼らがこの上ない正しい菩提に達するための(ふむべき)順序なのである。」
上述したように、16人の菩薩とその教えを受けた衆生たちは、繰り返し転生し、数々の如来のもとで「教え―教えられる」という教えの兄弟のような関係となるが、これこそが、最高のさとりに達するためのステップなのである、と釈迦は説いている。
なお、直接には、声聞たちに対して説いているのであるが、菩薩たちも声聞たちを指導することで仏陀に近づくのであるから、菩薩にとっても、これが育成のステップであると言えよう。
P.222-223
・「また、比丘たちよ、菩薩であった私が、かの世尊の教誡のもとで、一切知者たることの教えを、衆生たちにくりかえし説き聞かせたのであるが、その衆生たちとはいったいだれのことであろうか。比丘たちよ、お前たちが、そのとき、その場の、その衆生たちたちだったのである。」
ここで、大通智勝如来の16人の菩薩の一人であった釈迦から説法を受けていたかつての衆生たちは、実は、今、釈迦の面前で教えを聴いている聴衆たちであることが告げられる。
この場面は、序品でマイトレーヤが過去に求名であったことをマンジュシリーに告げられた場面と同じように、法華経で最もドラマチックな場面のひとつであるように思う。
P.223
・「また、私が完全な涅槃にはいったあとの未来世においても、声聞たちがいるであろうが、彼らは(この経を説く)菩薩の行ないを聞いても、『われわれが菩薩なのだ』とはさとることができず、かえって、比丘たちよ、彼らはすべて、(小乗的な誤った)”完全な涅槃”の観念をいだいて、(その)完全な涅槃にはいるであろう。しかしながら、比丘たちよ、私がそれぞれ異なった名前で他の種々の世界にいるとき、そこへ彼らは再び生まれて、如来の知を尋ね求めるであろう。」
この箇所は、やや分かりにくい部分が2点あるので補足したい。
1点目は、「彼らは(この経を説く)菩薩の行ないを聞いても、『われわれが菩薩なのだ』とはさとることができず」の部分である。「菩薩」という言葉が2回使われているが、1回目と2回目では意味が異なる。前者は声聞の次の成長ステップとしての「菩薩」であり、後者は、声聞・独覚・菩薩の三乗が実は仏乗ただ一つであったという、大きな視点に立った場合の広義の「菩薩」である。信解品で、マハー・カーシャパらが言った「(真の)”阿羅漢(アルハンタ)”」(Ⅰ P.145)と同じような意味である。
2点目は、「私がそれぞれ異なった名前で他の種々の世界にいるとき」の「私」は、後に如来寿量品で語られる、永遠の生命を持つ「本仏」としての「私」である。
この箇所は、要するに、未来世においても、あるものは衆生を指導する菩薩として、あるものは「真の声聞」として、仏陀の知を求めて未来仏のもとに集い、正しい教えを学ぶということであろう。
P.225
・「比丘たちよ、如来は自分が完全な涅槃にはいるべき時期を見きわめ、また、集まった会衆が清浄であり、(その)信順の気持が強固であり、空の教えをよく理解し、禅定に勤め、偉大な禅定を見定めるならば、そのとき、比丘たちよ、如来は『いまが(説くべき)ときである』と知って、すべての菩薩とすべての声聞たちを参集させ、そののちにこの(経の)意味を説き聞かせるのである。」
この箇所は、如来の宇宙創造の時期と意志として、小宮氏が次のように現代的に言い換えている
「わが弟子たちよ、如来が自分自身の完全なる悟りに達する時期に至ったことを察し、同時に弟子たちの心が清浄で、世間の下らぬ欲得から完全に離れ、解脱し、真空となり、如来に帰依する心が確立し、その心が完全に無に同化したことを確認すると、如来は最後に自ら悟った完全なる宇宙像を弟子たちに語り、託し入滅するのである。そしてあなた方は生まれ変わったその世界において、自らの過去世の菩薩であった姿とその前に蓮華座を組む如来の姿とを見るのである。」(小宮光二著 『釈迦が語る宇宙の始まり』、Clover出版 P.197)
P.224-227
・化城の譬え
「化城の譬え」は法華七喩の一つであるが、険しい森のガイドである如来と、宝探しの一行である衆生とが、以上述べた生死を超えた深い絆で結ばれていることを念頭に置きながら読むと、教えの当事者ならば、感慨が深まるのではないかと思う。