(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.156
・「あたかも雲が平等に雨を降ら(せて草木を満足さ)せるように、私はこの全世界を満ち足りたものにする。~
彼らは私から法を聞いて、その力量に応じていろいろ異なった位に立つ。」
本来、仏教はあらゆる生きとし生けるものは仏になることができると説いている。しかし、個々の存在において、その教えを理解する力は様々である。
言い換えれば、仏陀が「あたかも雲が平等に雨を降ら」せるように、衆生に教えを説いたとしても、その理解の仕方、解釈の仕方は聞き手のレベルに応じたものになるということである。
様々な仏典の書き出しが、「師はこう言われた」ではなく、「私はこのように聞いた」と聞き手の立場で書かれているのは、内容の理解が読み手のレベルに応じたものとなることを容認しているということだろう。
この点、読み手が繰り返し経典を読むことにより読解力がつけば、異なった世界が見えてくるということでもあるのだが、そのことについては後半部分の盲人の例え(P.160以降)で説かれている。
P.157-158
・「この世の中には、これらのきわめて小さい薬草もあり、やや小さな薬草も、ほかに中位のものや、大きな薬草もある。~
①汚れのない法を体得し、涅槃に到達している人たち、また六種の神通を得、三種の英知(三明)をそなえた人たち、それらが小さな薬草といわれるのである。
②山窟に住む人たち、おのおの独自のさとり(縁覚証)を望む人たち、このように半ば浄らかな覚知のある人たち、それが中位の薬草といわれるのである。
③人中の牛王(仏陀)となることを目的とし、「人間や神々の保護者である仏陀に自分はなるであろう」と言って、精進努力と禅定を行う人たち、それが最高の薬草といわれるのである。
④善逝の息子たちで修行に専心し、この世で慈愛を行い寂静の修行をして、人中の牛王となることに疑いのなくなったものたち、このような人が喬木といわれるのである。
⑤退転することのない法輪を転じ、神通力のなかにあり、堅固な人(菩薩)であって、幾コーティもの多くの人を解脱させるもの、それが実に巨木といわれるのである。」
※番号は説明の便宜上、筆者が付けた。
この箇所は、釈迦あるいは法華経の編纂者たちが、仏弟子の成長レベルをどう見ていたのかについて参考となる部分である。
すなわち、
①小さな薬草:声聞レベル
②中位の薬草:独覚レベル
仏陀の説法に頼らずに阿羅漢のさとりを得る点で、声聞よりも力があると見たのだろう。
③最高の薬草:菩薩レベル
大乗仏教の観点から、仏陀となることを目指し日々精進努力と禅定を行う点で、声聞と独覚よりもレベルが高いと見たのだろう。
④喬木(枝の細い木):授記を受けた菩薩レベル
「人中の牛王となることに疑いのなくなったものたち」は授記を受けた仏弟子たちを指すと考えられる。
⑤巨木:「スーパー大菩薩」レベル
不退転であり、多くの人々を解脱させる力があることから、過去世で授記を受けた後、幾度の転生を繰り返しながら修行を重ねた「スーパー大菩薩」あるいは今生で如来となる「如来さながらの人」を指していると考えられる。
P.158
・「勝利者(仏陀)は等しくこの法を説かれるが、それは雲が雨を一様に降らせるのに似ている。(それにもかかわらず、)このような(仏陀の)すぐれた知が種々にはたらくことは、あたかも地面の上にはえている植物(が種々であるの)と同様である。」
上記で述べたように、仏陀が同じ教えを説いたとしても、聞き手のレベルに応じた理解のされ方がされるということ。
P.160-章末
盲人の例え(後半部分)
鳩摩羅什の漢文訳にはない部分である。漢文訳はこの後半部分がないサンスクリット原本に基づいて翻訳されたのではないかと考えられる。
そのことから、学術界では、後半部分のある版(南条・ケルン本)は、後世に後半部分を書き加えられたものではないかと推測されている。
P.161
・「このように(仏陀が)述べられたとき、尊者マハー・カーシャパは、世尊にこう申し上げた。『もし世尊よ、三つの乗り物がないならば、なぜ現在、声聞、独覚、菩薩たち(の別)が立てられるのですか」』
こう言ったときに、世尊は、尊者マハー・カーシャパに次のように言われた。
『それはたとえば、カーシャパよ、陶工が同じ陶土からいろいろな容器をつくるようなものである。そのばあい、あるものは黒糖の容器となり、あるものは油の容器となり、あるものはヨーグルトや牛乳の容器となり、あるものは不浄物を入れる下等な容器となる。陶土には相違はないのに、(異なった)ものを入れることだけで、容器の相違が認められるのである。実にこのように、カーシャパよ、この乗り物はただ一つだけ、すなわち仏陀の乗り物(仏乗)だけであって、(これ以外に)第二、第三の乗り物が存在するのではない』」
方便品や譬喩品と同じく、ここでもただ一つの乗り物(仏乗)について説かれている。
ここでは、種々の容器が例として挙げられているが、これらは理解の仕方が種々に異なる個々の衆生を例えているものである。
種々の容器が内容物によって「〇〇用の容器」と区別されているものの、本質である材料においては同じもの(陶土)からなっているということは、あらゆる衆生が仏になれるという同一の仏性という素質を持っているということである。
ここでいう油やヨーグルトといった内容物は、どのような教えを学んだかということであろう。「What you eat is what you are.(あなたが食べたものが、あなたというものだ)」という言葉があるが、ある意味で学んだものがその学習者自身を構成するということである。
その一方で、どんなものを学んだにしろ、様々な容器が同じ陶土からなるように、あらゆる存在は仏陀になれるという本質的に同一の可能性を持っていると釈迦はここで語っているのである。
仏教における「平等」とは、あらゆるものごとのあり方は真実の意味においては同一であるということである。声聞、独覚、菩薩の三乗は、実は仏乗ただ一つであるというのは、単に三乗に差別がないという現代的な意味において平等であるというのではなく、そのような仏教的な「平等」観において三乗の別がないということであろう。
P.161-162
・「こう仏陀が言われたとき、尊者マハー・カーシャパは世尊に次のように言った。
『たとえ、世尊よ、衆生たちが志向し願うところが別々であるとしても、もし彼らが三界から出離したならば、彼らのとって涅槃はただ一つなのですか。それとも二つ、あるいは三つあるのですか』
世尊は言われた―
すべての法は平等であるとさとることによって、実に、カーシャパよ、涅槃があるのである、それゆえ、ただ一つ(の涅槃)があるだけであって、二つあるのでもなく、三つあるのでもない。~」
方便品や譬喩品と同様、涅槃に「声聞の涅槃」や「独覚の涅槃」という複数の異なる涅槃があるのではなく、真の意味においては、「仏の涅槃」というただ一つの涅槃しかないと、ここで釈迦は説いている。
ここで釈迦の言う「平等」とは、上述したような、すべての法のあり方は真実の意味において同一であるという、あらゆる法を止揚し包含するような仏教的な立場からみた「平等」である。