正法・像法・末法とは、如来の正しい教えの存続という観点から見た時代区分。
Wikipediaでは、以下のように解説されている。
正法(しょうぼう、しょうほう)とは、仏教で、正しい法(教え)のこと。邪法に対する語。白法、浄法、妙法ともいう。
また、それが行なわれるとされる釈迦の入滅(肉体死)後500年又は1000年間の時期のことで、仏法の儀式が改まらず成仏する人がいる時期をいう。 解脱堅固(げだつけんご)といい、仏法によって証りを得て誤りのない時代、 次の五百年を禅定堅固(ぜんじょうけんご)といって、 禅定(心を一点に定めて思惟すること)が盛んに行われて証りを得る時代
この場合、後の時代を像法、さらに後の時代を末法という。正・像・末の三時のひとつである。像法(ぞうぼう)とは、仏教で、正法に似た仏法のことをいう。「像」とは「似」の意味である。
また、釈迦の入滅後の500年から1,000年の間(又は1000年から2000年の間)の時期のことをいう。(中略)
像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。末法(まっぽう)とは、仏教で、仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと。または、釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期のことである。
この正法・像法・末法のうち正法と像法は、『法華経』の数々の授記の場面で将来如来となる予言の一部として語られている(例えば、「譬喩品」のシャーリープトラへの授記の場面)。正法と像法は如来によって期間は様々である。ちなみに、釈迦の正法が500年であることは、『法華経』の「普賢菩薩勧発品」に記載されている。
末法については、「五百弟子授記品」のカウンディヌヤへの授記の場面で「かの如実の人の正しい教えが消滅したとき、そのとき、人間も神々も苦悩するにいたる」と記されている(『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』より)。
富と権力を持つ一部の者たちが築き上げた非情で苦しみに満ちた管理社会に生きるわれわれの生きる現代が末法(そのうちでも最末法)であることは想像に難くないであろう。
ところで、「最末法」と述べたが、古代インドの聖典には、文明社会を霊的発展段階から4つに区分する考え方があるが、仏教が古代インド精神文化の展開の中にあると考えると、末法を二つに分けて、「末法・最末法」としたほうがよい。小宮氏もその立場を取っていると考えられる。
また、小宮氏によれば、授記により、来世において「正しい教え」を学び広めることを誓った菩薩たちは、授記を授けてくれた如来の末法に生を受けるとされる。そのなかでも、前世で如来となる覚悟を固めた菩薩(妙音菩薩)で、現世に転生した「如来さながらの人」(普賢菩薩)が、この末法であらたに「正しい教え」を衆生たちに説くという。
小宮氏は、最末法である現代において、大患難の後に、世界中に「正しい教え」を説く人物が現れる(すなわち如来)が現れると説いている。