今回も前回に引き続き、哲学的な話をしたいと思います。
前回、あることがきっかけで、時間と空間がまぼろしのようなものではないかと思うに至ったと書きましたが、そのきっかけは、ある心の病を患ったことでした。
その病とは、以前にも書きましたが、強迫性神経症です。
今では、ずいぶん良くなりましたが、一時はなかなか手洗いや戸締りの確認などが止められずに大変でした。手洗いは、ひどい時には5分ぐらい洗わないと気が済まないことがありました。
嘘みたいな話ですが、これは本当です。手洗いや確認行為を止めたいのに不安で止められないのです。
私は症状に苦しみながらも、手洗いの時の自分の心理を分析していました。
なぜ、何分も手を洗い続けるのかについて、最初は、何度洗ってもきちんと洗えているか不安になるからだと思っていました。
でもよく自分の内心を観察していると、少し違うことに気がつきました。洗浄結果よりも、むしろ手順の履行が確実になされているかが不安だったのです。
私は、「指先は4回以上洗い、その後に手首を1回洗い、その後に指の股を1回洗い、最後に手のひらと手の甲を3回以上もみ洗いする」というような自分独自のルールを決めているのですが、これが確認できないので不安になるのでした。
なぜ確認できずに不安になるのかというと、数秒前に行った手順であっても記憶がすぐにあやふやになってしまうからでした。
そして、確認できないので同じ手順を再び行うのですが、また、記憶があやふやになり、同じことを繰り返すのでした。そして、気がつけば、洗い始めてから数分があっという間に過ぎてしまうのでした。
記憶がすぐにあやふやになってしまう自分が情けないと思う一方で、私には、間断なく次々に遠ざかる目の前の出来事の記憶とは一体何だろうという思いがありました。
そして、確実なものは、目の前の事象を認識している「今」という瞬間だけではないかと思うようになりました。認識主体である自己が次々と生まれ、次々と忘却の彼方に去ってゆく。こういう感覚ですね。
そして、まぼろしのように次々と流れ、遠ざかってゆく自己は時間そのものであり、自己を時系列に並べた際の別名ではないかと思うようになりました。
この経験により、前回ご紹介した道元禅師の「時間とは自己である」という発見が何となくメンタリティー的に理解できるようになりました。
また、時間に紐付いている空間も同様です。次々と現れては流れ去ってゆく空間認識もまぼろしのようなものではないかとも思います。
時間と空間はまぼろし、そして、その認識主体である自己も結局はまぼろしの集積でしかないのかもしれません。
この後、私はこのことについて仏教的な理解を深めるのですが、それは、また別の機会にお話するかもしれません。
それでは、今回はこのへんにしたいと思います。