(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典4 法華経Ⅰ』による。)
P.166
・「無明によって目が見えなくなったものたちは、生成させるはたらき(諸行)を積み重ねる。この生成させるはたらきが条件となって、精神と物質の統一体(名色)を生じ、はてはこのようにして、まったく苦のみの大きな塊(苦蘊)が起きるのである。」
「無明」(すなわち無知)が根本原因となって大きな苦しみが生じることは、この後の化城喩品でさらにくわしく論じられている(P.215~216、十二縁起)。
真理についての無知ゆえに、悪いカルマを積み重ねることによって、衆生は「まったく苦のみの大きな塊(苦蘊)」を作り出してしまうというのである。この「盲人の例え」における”盲人”は、そうした無明の中にある人々をたとえたものだろう。
P.166-167
・「~菩薩たちはさとりを求める心を起こし、ものは本来生ずることがないことを認容する知(無生法忍)を得て、この上ない正しい菩提をさとるのである。」
菩薩たちがさとりを求めた結果として得られる「無生法忍」とは、全創造宇宙を滅尽したものとして見る、12次元的・現象学的であり、純粋な認識作用のことである。小宮氏の新仏教理論の基本概念の一つ。
P.167
・「いろいろな薬が適用されるにつれて、それぞれの病気が癒されるが、それと同じように、空、無相、無願という(三つの)解脱の門を修行して、人々は無明を滅するのである。無明を滅することから生成させるはたらきが滅し、このようにして、はてはこのまったく苦のみの大きな塊にいたるまで(のすべて)が消滅することになるのである。」
無明が根本原因となり、苦が増大してゆくことは上述したが、ここでは、無明が滅することによる苦の消滅が簡潔に説かれている(より詳しくは化城喩品(P.215~216)参照)。
ここでの「空、無相、無願という(三つの)解脱の門」とは、「『すべてのものは実体がなく(空)、形相がなく(無相)、欲求の対象でもない(無願)』ということ」を明らかに知ること」(信解品、P.125)であるが、「空」、「無相」、「無願」は、それぞれ「三界」の「無色界」、「色界」、「欲界」と対応しており、この三つからの解脱(理解して離脱)することが「三界から逃れ出て涅槃を得」ること(同、P.125)になるのである。
・「こうして、その人の心は善にもとどまらず、悪にもとどまらないのである。」
大変妙な言い方だが、解脱したあり方を端的に表した言い方である。同様の「~でもなく、~でもない」という表現がP.168や如来寿量品(Ⅱ P.109)でもされている。
P.168
・輪廻のなかにとどまりはしないが、また涅槃に到達しないもの(すなわち菩薩)
菩薩とは何かについての表現の一つ。ここでの「涅槃」は、無論、仏陀の究極の涅槃である。菩薩を輪廻からの脱出からさとりの極致の間に居る存在であるとして、生命としての成長プロセスの途上にあるものと見ていることがうかがい知れる。
・「彼は、十方いたるところにおいて、三界に属するものは(すべて)空であるとさとり、また世間は変化(へんげ)に等しく、幻に等しく、夢、陽炎(かげろう)、反響(こだま)に等しいと見る。」
ここでの変化(へんげ)は、それ自体は実体ではない幻影のようなものである。
余談になるが、筆者は小宮氏の新仏教理論に出会う前、独学でチベット仏教の修行法を実践していたことがある。その修行法の一つである「幻身の行」でも夢・幻の他に陽炎やこだまという言葉が使われていたのを思い出す。
たとえば、下記のような記載がある。
「『陽炎をイメージせよ。陽炎が立ちのぼると、まるで本物の水が出現したように見えるが、決してこの手で触れることはできない。自分の心もそのようなものである。いっさいの思い、分別(ふんべつ)などは、執着(しゅうじゃく)が強いほどはっきりと現れる。しかし、これもこの手につかむことはできない』」(高藤聡一郎著 『秘伝!チベット密教奥義』、学習研究社 P.158)
もしかしたら、「陽炎」や「反響」は、法華経に由来する「空」の例えで常用される言葉なのかもしれない。
・「彼はすべての存在(法)について、生ずることもなく、滅することもなく、束縛でもなく、解脱でもなく、暗黒でもなく、光明でもないと見る。およそ深遠なもろもろの法をこのように見るほどのものは、見ないというあり方をもって見る。」
解脱した、すなわち「空」を完全に理解した者のもののあり方の見方を示したものである。「~でもなく、~でもない」とすべて否定型で表されるのが特徴である。如来寿量品にも同様の表現がある(Ⅱ P.109参照)。
P.172-173
・「彼はこの(教えの)意味を体して森にはいり、よく心を平静にして思索するであろう。そして、まもなく(いろいろの)特性をそなえて、五種の神通の獲得者となる。
これと同じように、すべての声聞たちは(自分たちが)涅槃を得たものであると思う。しかし、そのとき勝利者は彼に説くであろう。『これは静止であって、(真の)涅槃ではない』と。
(声聞たちにふさわしい)道理がこのように説かれたのはもろもろの仏陀の方便である。しかし、一切を知ることなしには(真の)涅槃はありえない。このこと(すなわち一切知性)に向かって努力せよ。
(過去・現在・未来の)三世に関する無限の知と、浄らかな六種の完成の行(六波羅蜜多)と、(すべては)空性であり、無相であり、無願であることと、
(最高の)さとりを求める心と(それらについて努力せよ)。」
方便品や譬喩品と同趣旨のことが釈迦によって説かれている。
一切知者である仏の涅槃だけが真の涅槃であり、声聞が得たと思っていた涅槃は、方便によって与えられた「静止」である仮の涅槃であるというのである。
また、そのような仮の涅槃に安住するのではなく、一切知性の獲得に向けて努力し、真の涅槃へ到達せよ、と弟子たちを鼓舞するのである。
P.173-174
・「(あらゆる)存在は、幻や夢を自体とし、芭蕉の茎のように実質がなく、反響(こだま)に等しいものであると知る人、
また、三界に属するものはすべてこれら(幻、夢など)を自体とするのであって、束縛されたものでもなく、解脱したものでもないと知り、涅槃をも識別しない人、
(さらに)すべての存在は平等であり、空であって、相互に相違することのないものであるが、これらを対象化することなく、どんな存在(法)をも見ることのない人、
このような人こそが偉大な知恵のあるものであり、残りなく存在の全体を見るものである。三つの乗り物はなく、この世には一つの乗り物(一乗)だけが存在するのである。」
これより前の部分で「一切を知ることなしには(真の)涅槃はありえない」と説かれているのは上述したとおりであるが、ここではその「一切を知る人」、すなわち、六波羅蜜多の智慧の完成した人はどのような人かを説明している。
「あらゆる)存在は、幻や夢を自体とし、芭蕉の茎のように実質がなく、反響(こだま)に等しいものである」とは、現代的に言えば、あらゆる事象は仮想現実である、ということになろうか。すなわち、この世界に住むわたしたちは、メタバースの完成を待たずとも、すでにバーチャルリアリティーの中に投げ出されているということになる。
「束縛されたものでもなく、解脱したものでもない」から、「どんな存在(法)をも見ることのない人」の部分は筆者にもよくわからないが、そういった「解脱した/していない」ということを超越した見方ができる存在が「一切知者」であるということだろう。