(とくに記載がない場合、ページは『中公文庫 大乗仏典5 法華経Ⅱ』による。)
P.22
・ストゥパ(塔)
インドでは精神性の象徴としてこの言葉が用いられる。
P.23
・「結構です、大変結構です、シャーキア・ムニ世尊(釈迦牟尼(しゃかむに))よ。あなたはこの”正しい教えの白蓮(妙法蓮華経)”という法門を巧みに説かれました。それはそのとおりです、善逝よ」
多宝如来(すなわち聴衆の真我)の喜びの声。
また、「この”正しい教えの白蓮(妙法蓮華経)”という法門を巧みに説かれました」というのは、前章の法師品までで法華経の内容をひととおり説いたということを言っており、序品から法師品までで法華経がひとまず完結していることを意味する。また、これより先は今までとは違う視点で法華経が説かれているということでもある。
11次元の多宝如来(入滅したすべての如来の集合体)が10次元の虚空会に現れるのは、その中心が説く法華経を聞くことを求めているからである。
法華経を理解することが自らが何もないこと(空であること)を認識する唯一の方法である。
・「~この宝玉からなる巨大なストゥパのなかには、如来の身体が完全な一体のまま(全身)で安置されているのである~」―5つの文①
【岩波版 中 P.171】
「~この大きな宝塔の中には如来の身体が一塊にされて安置されている~」
「如来の身体」とは、「入滅したすべての如来」を意味している。P.15(法師品)の「そこにはすでに如来の完全な遺身(全身)が安置されている」と同趣旨である。
なお、「すべての如来」については、授学無学人記品の2,000人の比丘たちへの授記で象徴的に描かれていると考えられる。
「『アーナンダよ、これら二千人の声聞たちはすべてみな、等しく菩薩の修行を達成するであろう。そして、~(輪廻における)最後の身体において、同じ刹那、同じ瞬間、同じ時刻に、集会の同一の時刻に、十方のそれぞれ異なった世界にある各自の仏陀の国土において、この上ない正しい菩提をさとるであろう。彼らは”宝玉をもとどりのなかにもつ王(宝相)”という名の、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来となるであろう。彼らの寿命の長さはちょうど一劫であろう。そして、それらの仏陀の国土の功徳の光輝はそれぞれ等しいものであろう。声聞の集団も菩薩の集団も平等に、彼らの完全な涅槃も平等に、彼らの正しい教えも平等に存続するであろう』」(Ⅰ P.261)
P.24
・”宝玉によって明浄なる(宝浄)”という名の世界
Koji氏の動画タイトルでは、「宝が生まれる場所」として「宝生」と記されていることがある。
・「~私(多宝如来)はこの”正しい教えの白蓮”という法門を聞いたあとでこの上ない正しい菩提において完成されたのである。」―5つの文②
あらゆる菩薩(後の如来)において、法華経を聞くことが、最高のさとりを得る唯一の方法だということ。
なお、言い方は異なるが法師品でも同趣旨のことが説かれている。
「『薬王よ、その如来の塔を敬礼したり、供養したりできる衆生たちは、薬王よ、みな、この上ない正しい菩提に近づいているとみなされるべきである。それはなぜかといえば、薬王よ、在家や出家の多数のものたちが菩薩の修行(菩薩道)を行ないはするが、しかし、この法門を見たり、聞いたり、書写したり、あるいは供養したりできないものもいるからである。この法門を聞かないかぎり、薬王よ、彼らは菩薩の修行に巧みなものではないのである。』」(P.15-16)
・「~この如来(多宝如来)の身体全体(全身)(を祀る)ために一基の宝玉からなるストゥパを建立しなさい。さらに、私のために他のストゥパをも建立しなさい」―5つの文③
「多宝如来が現れることができるように、あらゆる生命あるものは如来となり、虚空会の中心で法華経を語りなさい。さらに、弟子たちに授記を与えて同じことをさせなさい」という意味。法華経を通して様々な箇所でストゥパの建立について書かれているが、これはすべて授記で広がる無限の宇宙を語っている。
P.24-25
「十方のすべての世界にある仏陀の国土において、この”正しい教えの白蓮”という法門が説き明かされるときには、そのどの(仏陀の国土)にも、私(多宝如来)のストゥパ、この私の全身を祀るストゥパがあらわれてくるであろう。(また、)それぞれの仏陀・世尊がこの”正しい教えの白蓮”という法門を説いているとき、集会の真上の空中に(そのストゥパ)がとどまるであろう。そして、~この私の全身を祀るストゥパが賞賛のことばを発するであろう」―5つの文④
P.23の「結構です、大変結構です、~」の註を参照のこと。つまり、多宝如来が法華経を聞くことを求めているということである。
なお、言い方は異なるが法師品でも同趣旨のことが説かれている。
「『ところで、薬王よ、地上のある場所で、この法門が述べられたり、説かれたり、書写されたり、書写されたものが書物とされたり、読詠されたり、斉唱されたりするとしよう。薬王よ、地上のその場所には、高くそびえ立ち、宝玉よりなる巨大な如来の塔が建立されるべきであるが、~』」(P.15)
P.25
・「~私(大楽説菩薩)どもは、(シャーキア・ムニ)世尊の威神力によって、この(多宝)如来の姿を拝見したいものです」
釈迦の虚空会の聴衆が、法華経を聞くことにより、すべての入滅した如来(存在世界のすべての情報、最大の無限=無)を理解した理解したいということ。
妙音菩薩品の「多宝如来のご遺体を拝見したい」(P.216)と同じような意味。
・「~他のもろもろの仏陀の国土において、仏陀・世尊たちがこの”正しい教えの白蓮”という法門を説かれるとき、私(多宝如来)はこの私の全身を祀るストゥパをして、この”正しい教えの白蓮”という法門を聴聞するために、(それらの)如来のもとに赴かしめよう。~」―5つの文⑤
前ページの5つの文④と同じような意味。上記の”5つの文”の①から⑤は、理論物理学的に言えば、量子論・相対論の「統一場」について語ったものである。
P.26
・「~それら仏陀・世尊が私の全身を~示そうと思うときには、それらの如来は―(実は、)十方のそれぞれ異なる仏陀の国土には、(それら如来が自分の身体から化作した如来の分身がいて、互いに異なる名前で、それぞれの仏陀の国土において、衆生たちに教えを説いているのであるがーそのすべて(の分身の如来)を(集会に)参集させたうえで、そのあとで、彼ら、身体から化作された如来の分身と一緒にこの私の全身を祀るストゥパを開いて四衆に示すべきである。」
一人の如来の全平行世界を表現したもの。また、多宝如来の出現は、すべての平行世界において同時に起こることを表現している。
なお、やや分かりにくいのであるが、五百弟子授記品においても、象徴的に虚空会について語られている(「法華経の注釈集 五百弟子受記品」参照)。
・「~(私(シャーキア・ムニ如来)の身体から)化作された多数の如来の分身、そのすべてを私もまた、この(集会)にこさせねばならないであろう」
前ページの多宝如来の誓願を受けて、釈迦が自分の全平行世界の分身を集めようと考えたということ。
・「すると、世尊はそのとき、(眉間にある)毛の渦(白毫)から光明を放たれた。~その光明によって東の方角にある~世界に暮らしておられるすべての仏陀・世尊が見られた。」
叡智の光(=観自在力)で、すべての未来の世界の仏たちが、釈迦により認識されたということ。この光は序品と妙音菩薩品と同じもの。
P.27
・「実に良家の子らよ、(未来仏と菩薩の)われわれは、~多宝如来の遺骨を祀るストゥパを礼拝するために、サハー世界にいる~シャーキア・ムニ如来のもとへ行くべきであろう。」
未来の如来と菩薩が、釈迦の法華経を読む、あるいは説法の会を催すことにより、多宝如来と多宝塔が何であるかについて語り/理解しようということ。
P.28
・「~かの如来たちは、宝樹の根もとにある獅子座の近くにおられた~その(獅子座に)如来たちが一人ずつ結跏趺坐して坐った。~」
妙音菩薩品P.214参照。獅子座の高さと妙音菩薩品のターラ樹の高さを比較すること。
P.29
・「~(この)三千大世界のすべてにおいて如来たちがすべての宝樹の根もとで結跏趺坐して坐った。」
この無限の未来仏たちの集まりが釈迦ひとりの三千世界における出来事にすぎないということ(他の分身の三千世界とは区別されている)。
P.30
・「陸続と参集してきた如来たちが、それら宝樹の根元にある獅子座の上に結跏趺坐して坐った。」
平行世界の釈迦の分身たちが一つに集まってきたということ。すなわち、虚空会は、同じ瞬間にそれぞれの分身の世界で同時に開かれるということ。
P.31
・「~『実に(私(無限の未来仏の菩薩)の)尊い如来は、この宝玉からなる巨大なストゥパを開くことに同意なさいました』と」
このように、かの如来たちはすべて、おのおの自分の侍者を派遣した。
多宝塔と多宝如来が無限の如来たちのそれぞれの世界で行う説法の中に同時に現れるということ。
P.32
・「結構です、たいへん結構です。シャーキア・ムニ世尊よ~」
P.23と同じような意味
P.33
・「~世尊のシャーキア・ムニ如来は、かの如来と一緒に、その座席の半分に坐った。~」
ここから先の法華経のストーリーは、多宝塔・多宝如来とともに語られる、つまり、真空と最大の無限(=無)の理解が前提となるということ。
P.34
・「~比丘たちよ、如来(である私(シャーキア・ムニ如来)は(いま、)この”正しい教えの白蓮”という法門を委託して(付嘱)、完全な涅槃に入ることを欲している」
この前の部分で、釈迦は弟子たちに次々と授記を授けているが、このセリフは、その授記を授けて次の如来に役目を引き継ぐという如来の役目を終えたことを示すものである。
そう考えると、この後の勧持品で女性たちに授記を授けることと整合しないが、それはむしろ、提婆達多品、勧持品、安楽行品が後から付け加えられたものであることの一つの裏付けとなるであろう。
ちなみに、釈迦のこの願いは、勧持品の冒頭で薬王菩薩らこのサハー世界の弟子たちによって受け止められ、釈迦も黙認している(従地涌出品の冒頭で他の世界の菩薩たちの申し出が断れていることと要比較)。
・「完全な涅槃にはいられてから多くのコーティ劫も経ておられるのに、その(如来)(多宝如来)は、実にいまもなお教えを聴聞される。教えを聞くことのために、彼はあちらこちらに赴かれる。~」
5つの文⑤と同じような意味。
・「過去の生存において立てたこの指導者の誓願は、彼が完全な涅槃にはいられたあとでも、このすべての世界を十方のすべてにわたって、(教えを聞くために)遍歴される(ということである)。」
5つの文⑤と同じような意味。
P.36
・「その(ような勝利者の息子)は常に私(シャーキア・ムニ如来)を供養したことになるし、~自己存在者である多宝(如来)をも同じく(供養したことになる)。」
法華経を説く菩薩たちは、聴く者の真我(=多宝如来)を喜ばせることになるということ。
・「また、(この経典を説き明かすならば、)私にも、~(多宝)世尊にも、この座席においてまみえてことになり、さらに、幾百もの多くの国土から集まってきた、これら多くの世間の保護者(未来仏)にも(まみたことになる)。」
法華経を説き明かせば、真空と最大の無限(=無)を説明したことになるということ。