私たちが認識しているのは、ただ「今」だけ

今回も哲学的なお話をさせていただきます。

前回、「時間はまぼろしのようなもの」ということを言いましたが、それでは、私たちが今まで当然のものとしていた、過去、現在、未来と直線的に流れる時間という概念とは何なのでしょうか?

今回はこのことについて少し考えてみたいと思います。

ところで、量子論のような現代物理学の世界では、基本的に現在と過去しか考えないそうです。未来は不確定な可能性の世界でしかなく、たとえ未来のことをイメージしても、それは現在のイメージでしかなく、次の瞬間には過去になってしまう。また、たとえ、0.000001秒後であってもそれは過去であり、現在というのは、観念上の「今」でしかないということです。

また、同様に、ケニアのある原住民についての人類学的な研究によれば、彼らの言語においても、時間の観念には「現在」と「過去」しかなく、「未来のことは経験できないから存在しないに等しい」と考えるのだそうです。

これらのことから、我々が日常生活で当然のことのように受け止めている、過去、現在、未来という直線的・定量的な時間の観念は、必ずしも絶対的なものではないと言えそうです。

そして、「時間」の本質について考えるには、このような観念とは別の捉え方が必要なのかもしれません。

ところで、私個人の独特の捉え方なのかもしれませんが、過去の記憶について必ずしも時系列的に並べられないような感覚はないでしょうか?
例えば、子供の頃の楽しい思い出は、つい昨日のことのように覚えているが、仕事上の瑣末な議論の内容や、もう二度と会うことのない取引先担当者の顔と名前は忘却の彼方にあるというような感覚です。

つまり、記憶というものは、どれをとっても等列的で、実際の感覚では、必ずしも個々の記憶が起きた順に時系列的に並んでいないということです。言い換えれば、幼少時の出来事も、10年前の出来事も、去年の出来事も、昨日の出来事も意識の中で現在の事象として同時に起こっているという感じがするということです。

私は、歳を重ねたせいか、この感覚がだんだん強まってきているような気がします。そして、どちらかといえば、こちらの感覚に親和的になってきました。

となると、今まで馴染んできた、直線的な時間感覚は、実は、意識が作り出したフィクショナルな時系列的感覚と言えなくもない。そんな気もいたします。

みなさんは、「時間」についてどのような感覚がいたしますでしょうか?一度、ゆっくり考えてみてはと思います。

英語翻訳家、哲学・精神文化研究家、四柱推命・西洋占星術研究家、自己探求家。 現在、小宮光二氏のYoutubeメンバーシップにて、新仏教理論を学んでいます。

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