P.12
・「衆生たちを慈しむためにこの経典を説く人は、世間の保護者(仏陀)によって、衆生たちを教化するために遣わされたものである。
衆生たちを慈しむためにこの経典を受持する人は、(意志が)堅固なものであり、(仏陀の国土の)すばらしい生誕を捨ておいて、ここ(ジャンブー州)にやってきたものである。
のちの時代(悪世)に、彼がこの無上の経典を説くのがそこに見られるのは、彼の(自由に)生誕を選ぶ力によるものである。」
”スーパー大菩薩”の使命がここでも語られているが、ここでの「生誕を選ぶ力」とは現一切色身三昧のことである(妙音菩薩品、P.218~221参照)。また、ジャンブー州とは、7次元以下の世界であるとも言えよう。
P.13
・「また、だれかがこの最高の菩提を求めて、満一劫ものあいだ私に合掌し、幾コーティ・ナユタもの多数の詩頌をもって面前で(私を)讃美するとしよう。
彼は私を讃美して喜びを生じ、そこで実に多くの福徳を得るであろう。他方、だれかが、かの(この経典の受持)者たちを讃えて説くとしよう。その人は前者よりもいっそう多くの福徳を得るであろう。」
すでに述べたように、「この経典の受持者」たちを謗る悪行について語られているが、ここでは、彼らを讃美する福徳についても説かれている。
P.14
・「『薬王よ、私は実に多くの法門を過去に説いたし、現在説いているし、また未来に説くであろう。』」
ここでの「私」は、入滅を前に未来について言及していることから、如来寿量品の”本仏”としての「私」であると推測する。
・「『薬王よ、それらのすべての法門のなかで、まさに、この法門(『法華経』)こそが、すべての世間の人々にとって(容易には)うけいれがたいもの、すべての世間の人々にとって(容易には)信じがたいものなのである。薬王よ、これは如来(である私)にとっても内心の法の秘密であり、(もろもろの)如来の力によって守護され、いまだかつて顕示されたことのないものである。この(法の)立場は、いまだかつて語られたことも、説明されたこともないのである。』」
ここでは方便品ですでに語られたように、この経典が「容易には)うけいれがたいもの」であるということが再び語られている。
その難解さ、受け入れ難さゆえに、「法師」たちには「土くれや棒あるいは槍、また非難や脅迫がふりかかる」と後の部分でつづられている(P.19)。
・「『しかしまた、薬王よ、良家の息子たちにせよ娘たちにせよ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を信仰し、読誦し、書写し、恭敬し、尊重し、さらに他の人々に聞かせるとしよう。彼らは如来の衣に包まれているとみなされるべきである。また、彼らは、他の世界に(現に)おられる如来たちによって見守られ、加護されているのである。』」
『法華経』が世間には受け入れられにくく、説くことに困難がともなう一方、彼らは入滅後の釈迦のみならず、他の世界の如来たちに加護されるという。
「他の世界に(現に)おられる如来たち」とは、11次元の”何もない真空”(真我)の部分で繋がった融通無碍の世界の仏たち(すなわち多宝如来)のことであろう。
P.15
・「『ところで、薬王よ、地上のある場所で、この法門が述べられたり、説かれたり、書写されたり、書写されたものが書物とされたり、読詠されたり、斉唱されたりするとしよう。薬王よ、地上のその場所には、高くそびえ立ち、宝玉よりなる巨大な如来の塔が建立されるべきであるが、そこに必ずしも如来の遺骨(舎利)が納められる必要はない。それはなぜかといえば、そこにはすでに如来の完全な遺身(全身)が安置されているからである。』」
ここでの「宝玉よりなる巨大な如来の塔」とは多宝塔のことであり、「如来の完全な遺身(全身)」とは、入滅したすべての如来たち、すなわち、多宝如来のことである。次章の見宝塔品に繋がるように、ここですでに多宝塔と多宝如来について言及されているのである。
つまり、この『法華経』に向き合う者は、”宇宙誕生前の何もない真空”について言及したり、熟考したり、他の人に考えさせたりするようにせよ、ということである。
なお、ここでの「宝玉よりなる巨大な如来の塔」は、無論、物質的な建造物ではなく、ある種の精神のことである。
また、この箇所は、『般若経』と同じように、『法華経』においても、実際に仏舎利を祀ったストゥパを信仰するのではなく、”法”を信仰すべきとの立場を明らかにした箇所でもある(植木雅俊、『法華経とは何か その思想と背景』、中公新書 P.164-165参照)。
P.15-16
・「『薬王よ、その如来の塔を敬礼したり、供養したり、あるいは見物したりできる衆生たちは、薬王よ、みな、この上ない正しい菩提に近づいているとみなされるべきである。それはなぜかといえば、薬王よ、在家や出家の多数のものたちが菩薩の修行(菩薩道)を行ないはするが、しかし、この法門を見たり、聞いたり、書写したり、あるいは供養したりできないものもいるからである。この法門を聞かないかぎり、薬王よ、彼らは菩薩の修行に巧みなものではないのである。』」
次章の見宝塔品の「~私(多宝如来)はこの”正しい教えの白蓮”という法門を聞いたあとでこの上ない正しい菩提において完成されたのである。」(P.24)との多宝如来の言葉に繋がる部分である。正しい菩提をさとるためには、この『法華経』と向き合うことが必要であることが明らかにされている。
P.16
・「『薬王よ、まさにそれ〔井堀りの際に、まだ乾いた白い土が運び出されるのを見るあいだ〕と同じように、菩薩大士たちは、この法門を聴聞せず、把握せず、理解せず、洞察せず、熟考しないかぎり、この上ない正しい菩提から遠くにいるのである。ところが、薬王よ、菩薩大士たちがこの法門を聴聞し、把握し、読誦し、理解し、読詠し、熟考し、修習するとき、〔水脈に近づくように〕彼らはこの上ない正しい菩提に近づいたものとなるであろう。』」
上記の註と同趣旨。『法華経』と向き合うことではじめて、正しい菩提に近づくことができると説かれている。
P.16-17
・「『薬王よ、この法門から、衆生たちのこの上ない正しい菩提が生じるのである。それはなぜかといえば、この法門が最高の深い意味を秘めて語られたことばを解明するものであり、(この法門には)菩薩大士たちを(この上ない正しい菩提において)完成させるために、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちによって秘匿(ひとく)された法の立場が説明されているからである。』」
これまで、法華経を聞いたり考えたりしないうちは、正しい菩提に近づくことはできないと説かれてきたが、ここでは方便品の冒頭のエッセンスも加味されている(ⅠP.40~45参照)。
P.17
・「『薬王よ、だれかある菩薩がこの法門をおそれ、こわがり、恐怖におちいるならば、薬王よ、彼は新しく(仏陀の)乗り物によって出で立った(新発意(しんぱち))菩薩大士とみなされるべきである。しかし、もし声聞の道に属するものがこの法門をおそれ、こわがり、恐怖におちいるならば、薬王よ、彼は声聞の道に属する思いあがったもの(増上慢者)とみなされるべきである。』」
上記と同様に、ここでも方便品のエッセンスが再び説かれている(ⅠP.57~59参照)。
・「『薬王よ、だれかある菩薩大士が、如来(である私)が涅槃にはいったのちの時代、のちの時節に、この法門を四衆に説き明かすとしよう。薬王よ、その菩薩大士は、如来の室に入り、如来の衣をまとい、如来の座に坐って、この法門を四衆に説き明かすべきである。
薬王よ、如来の室とは何か。あらゆる衆生たちへの慈悲というあり方こそが、薬王よ、実に如来の室なのである。~また、薬王よ、如来の衣とは何か。偉大な忍耐と(心の)柔和こそが、薬王よ、実に如来の衣なのである。~さらに、薬王よ、如来の法座とは何か。あらゆる存在(一切法)の空性に悟入することこそが、薬王よ、実に如来の法座なのである。』」
ここでは、釈迦の入滅後に『法華経』を説くものたちに対し、如来の”室(慈悲)”、”衣(忍耐)”、”座(空性)”により教えを説け、と教示されている。
P.18
・「『菩薩は心をひるますことなく、菩薩の集団を前にして、菩薩の乗り物によって出で立った四衆に対して(この法門を)説き明かすべきである。そして、薬王よ、他の世界にいる私は、その(説法者である)良家の子のために、(神通力によって)化作(けさ)されたもの(化人(けじん))により聴衆を集めるであろう。』」
「他の世界にいる私(仏陀)」が『法華経』を説く説法者のために聴衆を集めるというのはよく分からないが、ここでの「私」は”本仏”としての仏陀(=真我)であり、そのあらゆる衆生の真我が正しい教えである『法華経』を求めて自ずとその説法者のもとに集まってくるということであろう。
・「『また、薬王よ、他の世界にいる私は、その良家の子のために顔かたちをあらわすであろう。そして、彼がこの法門の字句を忘れているなら、彼が読詠するときに、私は(思い出させるように)それらを再び説くであろう。』」
この箇所と同じような表現が普賢菩薩勧発品にも見られる(P.254参照)。実は、普賢菩薩勧発品はこの法師品の別バージョンとも言える章となっている。すなわち、その一生で如来となるべき人である普賢菩薩は、他の如来と同様に、説法者を助けるというのである。
なお、「~それらを再び説くであろう」の部分は、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』では「~〔その人のために口まねで〕反復させるであろう」となっている(同書 下 P.21)。
P.19
・「(この法門を)説くものに、土くれや棒あるいは槍、また非難や脅迫がふりかかるとしよう。そのばあいには、私のことを念じて、それらに耐えるべきである。」
『法華経』すなわち全創造世界の真実のすがたを説く”正しい教え”を説き明かすものに降りかかる過酷な運命について書かれているものである。このような困難はこの後の勧持品により詳しく記載されている(P.58~63参照)。このような困難に襲われるとしても、それでも如来のことを思い耐えよ、と説いている。身の引き締まるような言葉である。
P.20
・「私の身体は、幾千・コーティもの(仏陀の)国土において堅固であり、考えも及ばない幾コーティ劫ものあいだ、私は衆生たちの教えを説くのである。
私が完全な涅槃にはいったあとで、この経典を説き明かす勇者のために、私はまた多くの化作されたものたちをそこに覇権するであろう。
(それた化作された)比丘・比丘尼、信男・信女たち、(この四)衆は、等しくまた彼に供養をするであろう。
そして、だれかが、土くれや棒、また非難や脅迫や侮辱を彼に与えるなら、化作されたものたちは、(それから)彼を守るであろう。」
”法師”に降りかかる困難が説かれる一方で、ここでは、如来の不滅とその加護について説かれている。ここでの「私」は永遠の命をもつ本仏としての如来のことであろう。
また、”法師”への加護は、普賢菩薩勧発品においても説かれている(P.259~260参照)。
・「(彼が)たった一人で森の洞窟に生活し、読詠を行なうとしよう。彼はまさに私を見るであろう。」
ここでの「私」とは、本仏としての如来、すなわち、”何もない真空”であり、すべての如来の集合体である。